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仏教も大変だ

近い親族の葬儀があった。帰ってこられるものと思って何度か見舞いに行ったりしたが、結果はこういう形だった。

 

私は若いときに坊さんになりたいと思ったときがあって、それなりにいろいろあって、教会に変わったしたが、改めて仏教さんも大変だなと思った。

 

見ていると、人がなくなると戒名がつけられる。授戒が行われる。これは禅宗の場合で真宗は違う。

そのどこがおかしいのか?と思われるかもしれない。

 

アメリカやプロテスタントの土地は難しいだろうが、基本的にキリスト教はひとつである。正教圏ではカトリックであるような修道士会というのもなくて、修道士というのはロシア人の修道士もギリシャ人の修道士も同じ修道士である。神父は給与で寄付は教会にする。幼児洗礼が問題になることはあっても、基本的に生前に信者になって決まりごとを守らないといけない。このときに洗礼名をいただいて、天国に記憶するためにはこの名前が必要になる。洗礼名以外の名前でお願いをして神様が聞き届けてくれればいいんだけど、形の上では洗礼を受けるべきだ。

 

それって、色々形骸化や組織の維持の問題はあっても、普通の姿と思う。

 

ご存知の方も多いだろうが、お釈迦様はご自身の教団を作られたときに、信者の形として比丘(男性の出家)・比丘尼(女性の出家)・優婆夷(男性の在家信者)・優婆塞(女性の在家信者)という立場を定められた。それぞれの信者さんは帰依するときに教団の決めた戒律を守ることを約束し、名前をもらう。それが戒名で、死後の行く先を祈る場合にも仏弟子としてのこの名前で呼ぶ、ということである。

ところが、これが日本の仏教では死後にしかつけられないのだ。つけられる、と言っている人もいるが、現実的には無理だと思う。

 

お釈迦様は、当然ある種の救世主としてこの世で教えを説かれた。直接的に解脱します、救われますと教えを説かれたと私は理解している。

 

しかし、日本の場合、仏教はお釈迦様の教団から、大乗仏教、密教の発達を経て、最も発達した後期の仏教が国家仏教として輸入された。そのときには、すでに一般民衆が仏になれるなどというのはまるであり得ないというような状況で輸入されたのだろう。それに対して、真宗のような新しい運動が起こった。民衆でも南無阿弥陀仏というだけで浄土に転生して、浄土で弥陀の本願により解脱できる、という考えである。ところがそれがあまりにも勢力を持ったために江戸幕府は寺社に布教を禁止し、統治組織に組み込んでしまった。そして明治時代には廃仏毀釈が行われた。布教が禁じられたために授戒ができなくなってしまったそうで、信者になるのは死んでから、ということになったらしい。

 

いま生前戒名などの運動をされている方もあるようだが、今度は宗派によって戒名のつけ方が違うから無効だという人もいるし、怪しげなビジネスにしようとしている人もいるようだ。真言宗智山派で生前戒名を受けましたから、曹洞宗でそれで弔ってください、ということがどうやら難しいらしいんですね。

教会は普段は献金は沢山いるけど、葬式や結婚式は割合安くて済む。教団としてやっているから、法事みたいなのもいわば教団の責任であって、個人が金を出して弔うかどうか、戒名代を払うかどうかという仏教のやり方とだいぶ違っている。

 

昔、お釈迦様の教えはすばらしいと思って、いまもそれは変わらないけれども、坊さんも大変だなあと改めて思いました。やってて歯がゆいだろうと思う。それなりに聖職につかれたわけですから、頑張ってやって欲しいとは思いますが。

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