私たちは時間を越えた観察者としての「私」を常に前提している。また時間に対して変わらることのない「もの」とそれに与えられた「名称」が世界を形成している。
私たちは通常物の世界が目の前に広がっていると考える。 私たちは、認識し、判断し、命名して、そのものがあると認める。 そのように命名されたものができあがると、それを欲しがる。そこに未来が生まれる。
しかし、そこに認識し、判断し、命名するという私たち自身の行為が介在することによって、私たちが「ある」と言っているものは必ず過去のものである。私たちが認識することによって、それは変わらないものとしてあることになる。 しかし、過去というのは現実には存在しないのであるから、私たちがあると認識したものは必ず過去のものである。今あるものを私たちは知らない。
認識・判断・命名をすることが、私たちにとっての世界を確固としたもののように見せている。それは実は決定的な役割を果たしている。 それは、私たちが自分でやっていることであるけれども、自然に、あるいは置かれた状況にしたがって、そのようにしているのである。そして、それによって私たちの「私」が形成され、「世界」が生成され、「時間」が生じる。 私たちは自分で作った世界の中で自分の力を使い果たしてしまって、そこから出ることが出来ない。
しかし、もし少し沈黙の時間を持つことが出来たなら。
空想や怒りやあせりを手放して、死に直面することができたなら。
費やしてしまっている力をほんの少しケチって解放することができたなら。
そこには全く新しい可能性がある。
引き返すことのできないポイントが存在する。
そのポイントを超えて、初めて意味のある説明が存在する。それ以前にその説明を聞いても、たわごとにしか聞こえない。