ある写真が心霊写真だという。何か人の顔が写っている。しかしある人は、それは写真のトリックでいくらでもそういう写真を撮れるのだという。
ある人が写真を見たら、亡くなったおばあちゃんの顔が写っている。しかし、よくよく見てみると、それは木の影だった。ではそれは偶然だろうか。これは心霊写真だろうか。そのときにたまたまおばあちゃんに関係する何かが起こったりすると、木の影ではあっても、その人にとっては心霊写真ということになるかもしれない。
そもそも映っている人が「あっ、あの人だ」と判断するのは何によるのだろうか。そこに「あの人」の実体はあるのだろうか。
たとえば、蛇にとって、写真に写った人間の顔はあまり意味をなさないと思う。たぶんそんなにはっきり見えはしない。犬はどうだろう。よくは知らないが、たぶん犬もいろいろな写真を見てそこに意味を見出したりしないのではないだろうか。犬は鼻先に手を出してにおいを覚えさせて友達だと納得してくれれば、その後吠えかかったりはしない。彼らにとっては視覚より嗅覚が大きな基準だ。いつも見ていた写真みたいなものがあったとしても、その「もの」に対する愛着があって、一緒に暮らした人間のことを思いやる気持ちは犬にもあると思うが、たとえばキャメロンディアスが飼っている犬がいて、その犬がキャメロンディアスのポスターを見てなつくかどうかは別だと思う。
言いたいことは、要するに人間のようにどの生物も写真に意味を見出すとは限らないということだ。
ある意味、鏡ですら、その中に実体はない。単なる光の反射によってできる幻像だ。その幻像に対して私たちは意味を見出す。
そして、光の反射によって生み出される幻像ということであれば、現在見えている世界そのものがそうだ。それは単に光が生み出す幻像に過ぎないのだ。
そこに意味を見出すということはどういうことだろうか。ふつう私たちは考える。考えるということは、心の中で言葉を繰り返すことだ。だが、そもそも世界に言葉はあるのだろうか。私が言いたいのは、言葉を使って考え続けるという現実なしで、光が映し出す幻像に私たちが意味を見出せるだろうかということだ。
そして、言葉が止む日というものはある。そういうことが起こり得るということを私は知っている。眠るのでもなく死ぬのでもなく、言葉が止む。言葉が止むと世界が停止する。
世界が停止した日、そこに意味はあるのだろうか。
人は沈黙の側から言葉を取ってこなければならない。沈黙の側では、人は知っているが、言葉はない。それを言葉にしたとき、その言葉は力をもって人々が沈黙の側に来るための道しるべになる。