阿含宗の桐山靖雄管長が密教占星術という本で、占いがあまりに当たるために、どの方角を避けて通るとか、金剋木と打たれたから病気になったとかいう考え方を批判して、運命を決めるものは他にあるのだ、占術はそれを金剋木という形で知らせたにすぎないのだ、と書いていた。
とても納得できそうな考え方である。なるほどと思った。この人に傾倒していた私の知り合いからも、カルマなり因縁なりというものがあって、星は道筋を提供するだけなのだ、といわれるとこれもそうかもしれないと思った。
一方でホラリーなどが実際の事象を当てることができて、その理論的背景、つまり惑星が地上の有機生命体に影響があると考えると、やはりそうとばかりも言えないのではないか、などと考えることもあった。もし転生する主体、カルマを背負う主体が、個ではないのなら、我々がカルマに対していったい何ができるのか、という疑問もある。
今年、占星術的に予言された大きな出来事が自分に起こった。
ただ占星術的に予言されていた、というだけではなく、さまざまな所謂神秘的な宗教的なことがその出来事に関係していた。
誰かが何らかの努力をしたら、この出来事は避けたり延期したりできただろうか。
自分としてはできたのではないかと思うのである。
それができたかもしれないというのは、もし誰かがすごくそれをやったら、発心したら、毎日何かの宗教的・道徳的理由でたゆみなく努力をしたら云々の条件が満たされた場合である。その条件が満たされるということがとても難しい。しかし、無理ではないのではないかと思う。それをするためには、あれをしなければならなかっただろう、こうあるべきだっただろう、しかし、それはこれこれの条件でできなかった、あれの条件でできなかった、だから結局出来はしないことだったのだということはわかる。
わかるのだが、絶対無理なことかといわれると、多分そうではないと思う。
運命、占星術というのは、いわく言い難い決め事なのだが、理性的に想像されるような因果律とは違っているのだろう。それを自分で経験してみて、桐山さんが運命を決めるものと占術の結果とは違うのだ、と言っている意味が分かるような気がする。
自分自身ががんばって何かの達成を得たということ、神から何かの恵みをもらったということは、多分とても幸運なことなのだ。そのように努力したり達成したりするということは、誰にでもできることではないのである。