自分は、昔は所謂結跏趺坐、ヨガでいう蓮華座みたいなのでずっと座っているのは、一つの理想的な座り方なのだろうと思ってきた。完全に脱力して背筋を伸ばして肉体を気にすることなく座る、みたいな。また普段の生活でも、割と正座がいいと思っていた。
だけど、パソコンの仕事をするようになってから、楽な椅子というのにはこだわりたいと思うようになった。
普通の椅子では腰が曲がってしまって、背骨を傷めたりするという。なるほど。そして、ちょっといい椅子に座ると楽に感じる。
だけど、ひょっとしたら、ひょっとしたらですよ。
たとえば背もたれのない椅子に座ることによって当然鍛えられるべき筋肉があって、背もたれがある椅子に座るとその筋肉が鍛えられないために心地よい椅子に座る人は老後に何らかのハンディを抱えることになってしまうのではないだろうか。
食事などもそうだと思う。大まかに、人間はこういう栄養素が必要だ、というようなことはあるとは思うのだ。
しかし、ある栄養素を魚から取っている人が魚ばかり食べ続ける環境にいるのと、乳製品から取っている人が乳製品ばかり取り続けるのでは、結論が違ってくる可能性がある。つまり、特定のその栄養素を摂取できるように身体が進化・適応する可能性があるからだ。ある人は、魚を食べるのをやめて山羊を飼い始めた。それで乳を飲んでいるうちに山羊の乳を消化できる酵素が体内にできるかもしれない。
もう一度椅子の話に戻ろう。ものすごく、ほぼ全面仮定の話です。
Aさんは体に合った椅子を使い続け、それなりに仕事もやって、しかし安楽な椅子であったために特定の筋肉が発達しておらず、それが原因である種の疾病にかかって60歳で死んだ。Bさんは体にあう椅子がなかなかなくて、体を鍛えて対応したけれども、仕事はおろそかになりがちだった。しかし、そういう形で体を鍛えたことが幸いして70歳まで生きられた。
さて、どちらの人生がどうだったでしょう。そんなことはわからないですよね。
結局数十年後に結論がでるような事柄というのは、正解はないかもしれないのだ。
いま、人間の生活というものを見ると、先々でどういう影響が出るかわからないものだらけだ。パソコンやスマホはどうか。今は当たり前になっているけれども、テレビやラジオだってそうだよね。人類にとって当たり前の経験とはいえないものだ。また、遺伝子組み換え野菜はどうか。メタボ指導などもそうだろう。バリアフリーなどもそうかもしれない。車の生活などというのもそうかもしれない。これまでの人類が何十年もそういうものを使って暮らしてきたというような実例がないもののオンパレードだ。
自分としては、キリストが仰ったとおり、「木はその実によってわかる」、つまり何を使おうが、人生で何を生み出すことができるかどうかが、その木、つまり人生を判断する基準になるとは思っている。だけど、とても難しい習慣をもたらしてしまっているものは現実にあるかもしれない。