阿弥陀仏信仰のことを考えていたんですよ。
日本の多くの地域で、何が仏様なのか、仏教なのか、わかる以前に仏壇の前ではナンマンダと唱えるということは一般的にあります。ナンマンダ、つまり南無阿弥陀仏、または日蓮宗さんの南無妙法蓮華経でしょうかね。禅宗は最近になって、一生懸命南無釈迦牟尼仏と言っているようです。
だけど、仏教の信仰告白って三帰依文って決まってんじゃないの?つまり、
ブッダムサラナムガッチャーミ(南無帰依佛)
ダンマムサラナムガッチャーミ(南無帰依法)
サンガムサラナムガッチャーミ(南無帰依僧)
つまり、目覚めた人に帰依します、目覚めた人が説く法に帰依します、目覚めた人の教団に帰依します。簡単でしょ。それに現実的だ。
だって、仏教は目覚めた人に帰依する宗教だし、その教えに帰依するのも教団に帰依するのも、極めて現実的な選択肢です。
仏陀は世界に一人しかいない。釈迦牟尼仏である。あれこれいろんな人を挙げることはない。一人しかいないんだから。娑婆世界には珍しくも釈迦牟尼仏が出現されて、どうやったら迷いの生存を終わらせることができるのかお教えになりました。
ところが娑婆世界のはるか西のほうの、銀河系のはるか向こうかどこか知りませんけど、極楽浄土という別の世界が存在していて、そこには阿弥陀仏がいて、その方はすべての衆生を救うという請願をお立てになりました。だから阿弥陀仏のお名前を唱えるだけで銀河系のはるか向こうかどこかの極楽浄土という違う世界に生まれ変わって、そこで修行をして成道できますよ、だから阿弥陀仏の名前を唱えましょう、というのが南無阿弥陀仏です。
浄土真宗の皆さんはいろいろ理屈を仰るのかもしれないけど、要するにお釈迦様はいなくても一緒じゃん。お釈迦様の教えでは、教えを受けた、つまり受戒した比丘たちはみなインドで成道なさいました。入滅の時ぎりぎりに仏弟子になられた方も、阿羅漢になられました。
わざわざお釈迦様がこの世でお悟りになって、修行すればこの世で成道できるものを、わざわざどこか遠い世界に生まれ変わってやり直したほうがいいですよ、という教えの意味が私はわからない。そりゃ、歴史的にいろいろあったということはわかる。日本は最初国家仏教で、庶民は救われないという建前だった。徳川幕府は在俗信者、つまり優婆夷の受戒を禁じたので、全部死後戒名になりました。
いやまあ、そりゃそうなのかもしれない。色々あったんでしょうよ。
だけど、要するに煩雑すぎてわけわからんよ。
自分は、もう原始仏典が訳されて本になっている現代に生まれたから、最初から「なるほど、お釈迦様はこんなことを説かれたのか」と思って素直に仏典を読めました。
真宗に深く感服しておられる方はたくさんおられて、特にキリスト教関係者なんかもそれはそれでいいと思っておいでの方がおられます。
だけど、要するに煩雑なんですよ。なんでそんなややこしい前提からはじめなあかんの?
煩雑・煩雑・煩雑!
自分としては、何の真実もないなどというつもりは毛頭ないのです。すべての宗教はそれぞれの人の良心のもとになっていることもあり、大切にすることが重要だと思います。
だけど、煩雑なんだわ。なんだかんだで日本の仏教は煩雑すぎる。いっぺん、サラに戻したほうがええんちゃうかと思う。