スピリチュアル、あいまいな言葉で精神的なということですが、さまざまな活動があります。占いもその一つかも。ヨガもあるし、タオ・気功みたいな中国系のもの、ハワイのもの、アメリカ原住民のもの、イタコ、オーラ、セラピー、さまざまにあります。
それで、これらのものは世間的にいかがわしいものの代表みたいに言われます。
そういう側面は確かにあると思う。悪用する人もいる。事実だと思います。
しかし、世間的には評価が高くない分、実力で評価される。
それに宗教法人のように税制の優遇もないし、資産や歴史的な支えみたいなものもない。お寺さんだと寺の土地もいいところにどーんとあるわけだし、頼りにしてくれる檀家さんもいる。人が死ねば葬式の依頼があって、取り立てて功徳があるかどうかを証明しろなどと怒鳴り込んでくる人はいない。黙って般若心経か和讃でも唱えておけば、世間的に恥ずかしくない程度のお布施はもらえるわけだ。
本当は既存の権威、宗教団体なり、昔は政治と宗教は一緒だったと考えるなら政府といってもいいかもしれないが、そういうものが十分困っている人の受け皿になっているのなら、スピリチュアルみたいな怪しげな分野はなくてもいいのかもしれない。
しかし、既存の宗教団体が、実際的なものごとの受け皿になっていない。
所謂霊的な問題。既存の宗教団体、たとえばお坊さんが「お宅のこの仏さんは無念ななくなり方をしています。私も法要をサービスしますから、こことここの観音様に札を収めてください。」というようなことを言ってくれれば、別に巷の霊能者さんを訪ね歩く必要もないかもしれない。
霊的な問題以外の、一般的な冠婚葬祭もそうだ。寺もあるだろうが、教会、神社で行われる結婚式。その神の名前をもって誓いを立てて結婚するのに、別れられちゃったんじゃ、神様の面目丸つぶれじゃないですか。では、「あなたは、どこそこの町のこういう方がいますから、その方と結婚されたらいいでしょう。」「この方とはいまうまく行っていますが、しばらく様子を見たほうがいいでしょう」というようなことを教会や神社が言ってくれれば、それに越したことはないと思う。そして「ここの神社の案内でこの人と結婚しましたが、いまこういう問題が起こっています」というようなことが相談できればいい。ところが、結婚式を挙げる神社も、そういう後々のことまできちんと面倒を見ているかというと、なかなか出来ていないのではないか。
式だけは行って結構お金も頂戴します。でも、あとは勝手にやってね!それは本来の姿ではないのではないか?そして行き場を失った人々の受け皿としてスピリチュアルが存在している。
そういうわけで、スピリチュアルの皆さん、頑張りましょう。