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連祷

あまり聞きなれない言葉かもしれない。簡単にいうとキリスト教での繰り返しの祈祷のことだ。プロテスタントには多分ないと思う。

 

カトリックのミサでは、キリエがその部分に相当する。正教会で一般的に行われている金口イオアンの聖体礼儀では、司祭がこれこれのために主に祈りましょう、と呼びかけるとそれに対して他の信者あるいは合唱隊が「主憐れめよ」と呼応する形になっている。これが元々の形に近いと考えられる。

カトリックではグレゴリウスがミサをまとめた時に、司祭が何に対して祈っているのかは聞こえないようにしてしまって、それにかぶせてギリシャ語の「主憐れめよ」に相当するキリエエレイソンを歌うように設定した。グレゴリウス聖歌やクラシックの名曲なんかで「キリエ」が演奏されるときには、その裏で司祭さんはあれこれの祈祷を唱えていることになる。

 

ですが、今日は別の話で、要するに繰り返し祈祷するということです。

 

世界を世界にしているものは、繰り返しである。普通は世界がこのようにしっかりしたものだと思っている。

しかし、本当は世界はそんなにしっかりしたものでもはっきりしたものでもない。あれこれ考えて、あるべき世界の姿はこういう姿だ、とわかっても目の前の世界は一向に変わりないように思える。それは、普通の生活では「世界はこういうものだ」と繰り返し繰り返し信じ込んでいるためであって、結局真実は知ることができないと絶望してしまってニヒリズムに陥る。

 

これを解決する一つの方法として簡単な方法は、あるべき姿と思うことを毎日毎日繰り返し唱えればいい。

教会の多くのことは誤解されていて、全くありもしない空想話を信じ込んで残虐な行いをするところだと思っている人は多いかもしれない。だが、実は巧妙に伝えたい多くの概念を祈祷中に盛り込んでいて、毎日繰り返して聞いたり唱えたりするうちに「ひょっとして、これはこのことを言っているのではないか」ということにある日気が付き、そしてその理解されたことが日常生活に溶け込むように設定されている。

ある日、何か違ったことが起こっていると気が付く。

それは長く繰り返した一見荒唐無稽のように思える思想が、その人の世界を変えたからだ。

もし真正面から頭のいい人がその問題を考えても、そうかもしれないと思ってもそこから先に歩が進められないというような状況に陥ってしまうことがあり得る。しかし、連祷があることによって、その人はその障害を乗り越えていくことができる。

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