ドン・ファンは、第二の注意力は自然発生的には発達することはなく、必ずそこに到達する意図が必要なのだという。しかし、その意図たるや、望まずに望むという論理的にはありえない事柄なのだ。
彼は夢の中で手を見つける、というトリックを使った。本当は、体全体であちら側の世界に入るということを感じ取りさえすればいい。しかしながら、日常生活の中ではその不思議な現象に対してなんら接点を求めることができない。しかし、その日常生活の強固な束縛も、ひたすら継続することには勝てない。とにかく必ず夢の中で手を見るということを繰り返すことによって、その能力は開花する。
そして、夢見をするということ、第二の注意力に入るということは、多分日常生活に活力をもたらすものなのだと思う。未知の世界を垣間見たり、そちらの世界にいったりすることが、その人に休息とエネルギーをもたらすように思う。
多分、いつか意図とか、今の世の中で認められていない特別な能力が、人間社会の中で重要な能力として認識される時代が来ると思う。
思春期に、多くの人は金縛りを経験したり、ちょっと考えると不思議な出来事に遭遇したりする。おそらく、その時代、ドン・ファンの言葉でいう第二の注意力や意図といったものが、当然のごとく発達するべき年齢を迎えているのだろう。しかし、今の世の中ではそうしたものは認識されていないから、多くの人がどこへ行ったらいいか、どう対処したらいいかわからないまま、社会の仕組みの中に組み込まれていくのだ。
少し前までは宗教がその受け皿になっていた。だが、今の世の中の人は、たとえそこに何らかの真実を感じ取っていたとしても、まるっきり伝統的な宗教を受け入れる、ということは多分難しいだろう。キリスト教は聖書の記述を数えて、創世から1万何年か経っているという。一方仏教は弥勒が出てくるのに50億年かかるという。その時代、今のように学校が普及していたわけではなく、西洋人の多くが文盲だったし、江戸時代の人も恐竜のようなことは考えてみなかったに違いない。
だからといって、今科学や大学がすべての受け皿になっているかというと、多分多くの人々はその限界を感じていると思う。
すると、今度来るべきことは、何らかの能力をよりどころ・基準としていくということだ。
だから、若い皆さんは、臆せずにこうした未知の分野に飛び込んでいってほしい。