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預言 (1)

自分は預言ができるわけではないのです。ただ、多分こういうことなのだろうと思っていることはあります。ちょっと考えを整理してみます。

 

世の中には「予言」という言葉と「預言」という言葉が出回っています。

予言は未来を当てること。方法は問わない。だけど、ニュアンスとして科学的に計算したり推論したりして当てるのではなく、他の人が知らない何か不思議な方法で当てることに対して期待を持たせる言葉です。

一方で預言というのは、聖書に出てくる預言者がやっていることです。神様がその人に語りかけられて、先々の真実がわかったり、その神様から預かった言葉を人々に伝えたりする、みたいなことです。ただ、説明はそうなのかもしれないけれども、預言はある特定の現象を指して言われていることです。その言葉が成立した背景は、多くの人が認める一定の現象が実際にあって、それは「預言」という現象だと理解されていた状況がありました。前に流行った「ノストラダムスの大予言」みたいに、どうやって当てたのかわからないけど、他のも起こったしきっとこれも起こるぞ、怖いだろう?ということではないのです。

 

ではその現象とはどういう現象か。

まず、普通の人が見ないものを見ます。それはたとえば先々のことかもしれないし、本当はわかるはずもないような遠くのことかもしれません。

もう一つ顕著な現象は、声を聴くということです。それは主の声だということになっています。サムエルの場合などが有名で、細かくその状況が記述されています。しかし、列王記に出てくる預言者は例えば間違って聞くというような例も挙げられていますし、新約に出てくる預言ではいちいち誰が語っているとかそういうことは詳しく記述されていません。

 

イスラエルにはもともと預言者という言葉はなく、当初「見るもの」と呼ばれていた、と私は聞いています。英語でもseerというのは不思議な能力があって予言できる人を指す言葉です。しかし、その後その現象は「見る」ではなくて、「預言」である、つまり聞くことなのだ、ということになったのだと思います。

文脈は全く違うのだけれど、カスタネダの著作でメキシコの古代の見るものが出てきますが、カスタネダの先生に当たるドンファンは、彼らは最終的には視覚ではなくてそれを耳元で語る言葉を聞くことを「見る」ことの基準にした、と説明する場面があります。一緒なんです。

 

このことは、ただ単にモノが見えるということと違う意味合いを含んでいます。何かが見えたとして、それが幻影なのか、単なる狂気の結果なのか、白昼夢だったのか、何かわからないじゃないですか。ところが預言者は同時にその説明を聞いています。何が起こっているか同時にわかっているのです。このことはとても重要なことのように思えます。(続く)

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