自分でも、このブログやらなにやらで、いろいろキリスト教のこととかを書いてきて、簡単なテキストというのがすごく大事だと思う。ところがこの簡単な、というのが難しい。
釈迦が悟った内容は四諦と十二支縁起なのだ、釈迦の一番弟子は舎利弗尊者なのだと教わった人は、般若心経を読んだ時に、そういう前提があって書かれたことを理解できると思う。仮に般若心経の訴えようとしている空の思想こそが本当の真実だと主張するにしても、当然のごとくに四諦や十二支縁起は知っていないといけない。一応それを知っていて「なるほどな」と思った人が般若心経を読むから、なるほどそういうこともあるのか、と知ることができるかもしれないけれども、そのためにはまず「お釈迦様はこのようにお悟りになりました、その後このように法輪を転じられました」ということは知っていなければならない。そしてそれは簡単なことではないのである。
正教会で常に歌われる生神女への聖歌で「常にさいわいにして」という歌がある。ロシア語でДостойно естьというらしい。Youtubeで歌えるような歌がないか探しているが、載っていない。Достойно естьと入力して検索すると、立派な聖歌がヒットしてしまう・・・立派というのは合唱曲なのだ。中にはパレストリーナかと間違うぐらい対位法の曲が載っていたりする。
この曲は祈りなのだから、今晩の飯の後で皆さんが集まったら、「いち、に、さん」で歌えないとダメなのだ。コンサート会場で聞いて拍手をして帰る曲とは基本的に違うはずなのだが。
子供用の絵本を買おうと思った時に、「ももたろう」とかなんとかいうような昔から皆が知っていて、輪郭線がハッキリしていて、おじいさんはおじいさん、おばあさんはおばあさんと、小さな子供が見てもはっきりわかるような絵本があるといいと思うのだが、書店に行ってもそういう絵本はなかなかない。新進気鋭の絵本作家なる人が、素晴らしい色彩で描いた絵本。だが、1枚1枚の紙は薄く子供がめくれば破いてしまいそうだし、中に書いてある内容も子供が読むには何が書いてあるのかわかりにくいというようなことが往々にしてある。本来の絵本が皆に知れ渡りすぎて、本屋はそれでは儲からないから、新しい目玉の打ち出せる本を出版しなければならない。その結果子供に読ませるにはどこに主眼があるのかわからないような本が出版されてしまうことになる。
大事なことは単純、簡単、基本だと思う。自分もそういうことに気を付けるべきだろうな。
こんばんは、ネコです。
そうです、何か書くにしても勉強しなくては書けませんね。
資料を探さなくては、、など等。
勉強できて本当にありがたいと思っています。
正教会の話とかになると当方、手が出ませんが、ロシア語なんですか?
ギリシア語とかヘブライ語ではないのでしょうか?
ご飯の後でする祈り、立派な聖歌でなく感謝の祈り、その意味は理解できます。
「日々の糧を与えたもう、恵の御神は誉むべきかな」とプロテスタント教会の愛餐会の前後で
唄われるような歌、の意味なんでしょうか。
絵本の話、
新進気鋭の作家が描いた絵本、
あれ、仰るとおり子供にあまり受けないです。
それほど凝っていないと思われるごく普通の(何を普通と言うのか?問われたら困りますが)
昔話絵本、お値段も安い、絵本の方が何故か子供受けします。
すくなくとも当方の孫たちにはそのほうが受けてます。
何度も読まされます。(ドンブラコッコドンブラコッコとももがあ~~)
親が教えたいと思うような理屈が書いてある本は受けないですね。(大笑)
ネコさん、こんにちわ。
教会スラブ語というのは、教会布教時にはスラブ民族には文字がなく、ロシア語、チェコ語、ブルガリア語、ウクライナ語etcといった言語がまだわかれていませんでした。そのため、新しく文字を作り、当時のスラブ民族の言葉に合わせたものが教会スラブ語です。
カトリックでは、すべての教会にラテン語を使うようにさせたのですが、正教会は布教先の言葉に合わせるというのが基本的な考え方です。ロシアではスラブ語、アラブではアラビア語、日本では日本語を使います。
Достойно естьはギリシャ語でΑξιον εστίν、日本語で「常にさいわいにして」と言われる聖母に対する聖歌です。
この歌にはいわれがあって、昔から「ヘルビムより尊く、セラフィムに並び泣く栄え、操を破らずして神言葉を生みし、実の生神女たる難事を崇めほむ」という祈祷があったのですが、夢で天使が歌って「このように歌え」というお告げがあって、それ以来正教圏では一般的に歌われるようになっています。この歌に関してはこの歌のイコンというのがあって、元のものはアトスにあり、一般的に向かって左にイエスを抱いて左右に天使が描かれる図柄のものが使われています。
日本の伝統仏教の仏教理解は、
伝言ゲームによってインドで発生したものとは違うものになってしまいました。
本来の姿に近い理解が得られるようになったのは20世紀になってからです。
同じようなことがキリスト教にもあるんでしょうか?
灸太郎さん、こんにちわ。
もちろん日本のキリスト教ということで考えれば、なんだかんだであるとは思うのです。
しかし、キリスト教の場合、発祥時点からよくわからない部分があります。
四世紀に突然完成された形式がポンと現れてくるということ。そしてその時点ですでに誰にでも理解可能なものではなかったと思います。明らかに教会はヒエラルキーの組織として出現している。にもかかわらず、使徒行伝を読んだ人はまるで聖職などという考え方のない共同社会が原始教会だったと考えます。。
比較的新しい教会や研究者の人が「当初こうだった」と考えるものと、伝統的な考えを持つ人の間に、そもそもの距離があります。しかし、だからと言ってその伝統的考えというのはキリスト教発祥後1000年も経ってから出現したものではなく、他の歴史的な宗教の成立から考えれば、これ以上はないというほど早くから出現したものです。
それから教会が聖典と信仰箇条を定めたということは仏教と違う点です。ほかの点で全く似ても似つかないものになったとしても、福音書が決まっているという点から、大きな逸脱ができません。「実は福音書とは別にイエスはこういう書物を残していて・・・」ということをキリスト教は許さなかった。