では、ここでもその良し悪しは別にして、この7つの世界を伝統的のキリスト教教義に当てはめたとしたらどうなるか、考えてみよう。
1.神自体が三からなるもの、三つの力が一つの意志として働くものという点は従来のキリスト教の説明に合致するのだが、その数の三つということは、父と子と聖霊だから三つというのではなくて、そもそも原理的に三つである。
2.その三つの力の現れ方によって、それぞれのレベルが決まっていて父・子・聖霊についての説明がなされる。聖霊は3つの力がそれぞれに働く一定のあり方なのだから、遍在ということもでき、すべての被造物の命ということもできる。子は3つの力が独自の力を表す状態なのだから生まれると表現され、それはそもそも自己という意識のことなのである。
3.どちらにしても父も子も聖霊も、通常の生活の中では説明のつかない理解しがたいものであることには変わりはないが、父だけはどうにも最終的に理解できないもの、である。理解はできないけれども、存在しているのは父なのだ。
このように説明することによって、従来のキリスト教の説明から考えた時に、都合がよさそうに見える点、都合が悪く見える点、がそれぞれ出てくる。
良さそうに見える点:
4.教会は「子が生まれる、聖霊が出る」と定式化したものの、世のなき先にどのように聖霊が出て、どのように子が生まれるというのか、ちゃんと説明していないように思える。ところがこの体系の中では、子が生まれるとか聖霊が出るということが理論的に裏付けられている。
5.このように説明された父の像、聖霊の姿、子の姿、やみのあり方というものが、従来の教会の示している像と一致している。この教会の示している像というのは、誰かが定義した教義というよりは、その教義が決められることになったもともとのそれぞれの描写に近いということ。
6.このような世界観を使うことによって、キリスト教は仏教や現代科学のような他の体系とも整合性のとれた説明が可能になるように見える。そして、実はキリスト教こそが非常に高度で整合性のとれた知識を伝えていたと考えられる。
都合が悪い点:
7.一応やみの創造活動より上にランクづけられているとはいえ、まるで聖霊や子が被造物のようではないか?
8.7つの世界は明らかに世界の7日の創造に対応しているように見える。しかしそういうことになってしまうと、聖霊が1日目に造られたみたいで、おかしいのではないか。
9.一般的に「父と子と聖霊」と言われる。子は二番目の位格である。ところがこの説明では子は三番目として説明されている。
10.父と子と聖霊だからこそ三位一体なのであって、父自体が三位一体だったら、そもそも聖書的根拠がないのではないか?
11.イエスひとりが子なのであって、このように普遍的な原理として子を扱ってしまっては、キリスト教の信仰が成り立たなくなるのではないか。