一般的に「ここが違う!」というのは、よくある。しかし、「これがこれと対照している」という説明はない。
この対照表のようなものは、多分いままで存在していない。多分他の人が対照表を作れば、全く違うものを作っただろう。しかし、表面的な一致点、阿弥陀さんとどうだとか、そういうものを作ったところで、おそらく何も解決しない。その人は仏教も知らず、キリスト教も知らないのだ。
この表がわかった人は、仏教とキリスト教の対立に終止符を打つだろう。
仏教 | キリスト教 |
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アートマンならざるものをアートマンとみなす。 | あなた方は人の子を見たいと思っても見ることができない日が来るであろう。そのとき誰かがあなたがたに見よ、ここにキリストがいる、また、あそこに、と言ってもそれを信じるな。 |
識によって名色が生ず。 | 裁くな、裁かれないためである。あなた方が裁くそのさばきで自分も裁かれ、あなた方の計るその量りで、自分にも量り与えられるであろう。 |
無明が滅すれば行が滅す。行が滅すれば識が滅す。識が滅すれば名色が滅す。 | その日二人の人がいて、一人はとられ、一人は残されるだろう。 |
「煩悩の流れを止めるにはどうしたらいいのですか。」 「気を付けることである。気を付けることが煩悩の流れを止めるのである。」 |
だから目を覚ましていなさい。あなた方にはそのときがいつか分からないからである。 |
こういうの、昔流行った比較宗教学なんかでやってないのかなぁ。
キリスト教の方が少し回りくどくてわかりにくい表現ですね。
灸太郎さん、こんにちわ。
これはない。
比較宗教学ということだったら、多分極楽と天国がどうだとか、慈悲と愛がどうだとか、洗礼と受戒がどうかとか、それはできるのです。
しかし、本当はコアの部分で一致していると自分は確信します。
そしてそれはそれなりの求道の結果としてしか、わからないと思う。字面を追っても、納得できるような事柄ではないと思うのです。
過去にこうした試みは多分なかっただろうと思う。あったらごめんなさい。しかし、もしそれがあるのであれば、お互いがお互いを語り容認していたでしょう。
キリスト教の表現は、確かに日本人にはなじみがない。自分も「なぜこんな表現をするのだろう」と思ったことは否定しません。しかしそれはそれなりの理由があると思います。
>しかしそれはそれなりの理由があると思います。
宗教経験としては異なる宗教であっても共有している部分があるでしょう。
でも、それをこの地上世界で語るとき、語っている場のカルマの中で語らずを得ない。
そこに「宗教」の差異が生じるでしょうね。