称名とか題目とかヘシカズムでやっているような繰り返しの祈りというものは、思うに表に現れない隠れた目的を持っている。
道元禅師などはこうしたことには否定的だった。「春の田んぼでカエルがギャーギャー騒ぐようなもの」と言っている。それはそれで、批判としてはわからないじゃない。
表向きは、「それを唱えたからどうなの?」ということはあり得ると思うのです。
それを覚えさせるのは、思考ではない。ちょっと語弊がある言い方かもしれないが、心ではない。アストラル体の分野、意志の分野の問題である。
通常の生活と、あちら側の生活というものは、何かとすれ違うことが多い。一応神様は真実だよ、と思っている人であっても、「でもこういう場合は、まあ、神様なんてものははっきりしないんだし」みたいな思考・思考を含む行動のリアクションというのは、人間という有機体の隅々に隠れている。だから理屈でわかっていても、「これだ!」という確信、意志になかなか至らない。
繰り返すのは、それをさせるためだ。あるギリギリの瞬間の行為が「いやまあ、神などという不確かなものではやめといて・・・」ではなくて、あるべき行為をさせるためだ。
ただまあ、そういうことであるなら、繰り返す言葉は正しいほうがいいね。