前回に引き続き、運命とは何か、である。
運命というのは命を運ぶと書く。非常に大雑把に、命の運行の法則、という風に理解すればいいと思う。
そして、占星術に関する限り、そういう運命の法則とでもいうものは、惑星に関係している、ということになる。
そうすると、命というのは何か、ということになる。
生命というのは何か、人間というのは何か、私が生きているということはどういうことか、私とは何か、ということになる。
こういうことについて、アプローチの方法として、まず外の命ではなく、自分自身というもの、内面的な理解というものが先に来るべきだと私は考えている。
外面的な理解というものもあるべきであり、それこそまさに占星術がしようとしていることである。
だけれども、外面的なものを先に取り上げてしまえば、多くの人々には、とても占星術は受け入れがたい、訳のわからないこと、ということになってしまう。
よく、運命なんて馬鹿げたことで、人生は自分で切り開くもの、努力でなんとかするもの、とおっしゃる方がいる。
その心構えは結構なことだと思う。自分でなんとかする。自力本願。基本的に賛成である。
だが、自分が切り開くというのは「誰が」人生を切り開くのか。
もちろん「私」である。人間である。
私というもの、人間というもの、生命というものは、では、いつから始まったのか。誕生の瞬間か。受精の瞬間か。
多くの人々が、生命は地球という特別な星に生まれた偶発的なもので、物質的な反応が積み重なって個別の生命を形作っている、と暗黙のうちに信じている。
そういう理解しかできない人には、占星術も運命もないと思う。
もし、私たちの周りの世界が、偶然や必然に支配される世界であるならば、命も偶然や必然からしか生じない。
それは、ちっとも命ではない。死んだ灰か、石ころの積みあがったものに過ぎない。
命や意志は、偶然や必然ではない何か、ひとつの源から来て、かなり決まっているんだけれどもそこにはそもそも意識や意志があるものであるということ、それをじかに見ることから知識が始まる。
普通は人間はリストの生物である。人間は成長の過程で必ずリストを作る。
お母さんはこの人。お父さんはこの人。おうちはここ。向かいはお店。カレーライスはこんな味。寒くなると正月があってお餅を食べる。
そしてそれは言語とともにその人の世界として固定される。世界が固定されるとともに自己も固定される。
誰でも必ずこの過程を人間は通る。ほとんどの人は、全く同じように世界を固定する。そうでなければ会話が成り立たないし、日常生活に困らないよう大人は子供を矯正し、子供も大人の見方に合わせようとする。
その結果、誰にとっても、世界は死んだ三次元の空間で、自分だけが意味不明な意志や生命を持って暮らしている世界が出現する。
しかし、一旦世界が形成されてしまえば、その世界を形成してきた注意力に余力が生まれる。
自然に発達した注意力は、この世界を最終的に壊して、別の世界を人に見させることができる。
生命はどこかからやってきて、大きな法則のもとで運行されている。それはよく言われているように宇宙人とか秘密結社などではなく、目の前のごく単純な事実として認識されるべきものなのだ。(続く)