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親しい人の死

あるいは私のブログをご覧になっておいでの方には、大きな災害で親族を亡くされたり、そういうことがなくても、若くて自分の親しい人を亡くされた方もおいでになるだろう。

自分は小さい頃6人の家族で住んでいて、自分が家を離れてからもずっとその人たちは元気で居続けた。

若くして親族を亡くされた方のことを、あるいは何かで読んだり、あるいは聞いたりしても、それは大して実感のあることではなく、というか、逆にそういう境遇が全くない自分のことを、何か足りない人間であるかのように思ったりしたこともあった。不幸な人というのは、実は大きな飛躍のチャンスをつかんでいる場合が往々にしてある。他の人なら満足にできることができないがために、それをカバーするために必死になったりするのだ。その人たちがとてつもなく元気だと言うことは、かじれるすねもあれば、帰れる巣もある、ということになるからね。

 

しかし、この10年ほどの間に、その6人のうちの3人が亡くなった。最近はしょっちゅう葬式のことをしているようで、慣れるのもなんだけれど、ちょっと当たり前みたいにになってきた。自分は伴天連だよ、と言ってはいるものの、香典帳を書いたりはしないといけない。気がつくとまたやってる。

別にそれ自体はおかしくはない。織田信長が舞ったという「敦盛」の一説じゃないけど、昔は「人生五十年」だったわけで、周りの人が亡くなっても全然おかしくはない歳にはなったわけです。

 

ところが最近、自分がその家族の人たちにいかに影響されていたか、というのをよく感じる。

たとえば価値観とか。ま、たとえばある歌がいいとか、あるテレビや映画がいいとか、そんな単純なことであっても、彼がそういう価値観を持っていたから、自分もそう考えている、というようなことがたくさんある。

あるいは毎日の生活にしてもそうだ。自分の代は違うのだけれど、私の家は三代続いた大工さんの家である。誰もがのこぎりがひけて当たり前、刃物が研げて当たり前とか、ほかのうちとは違う常識がある。そして、田んぼにたっていても、これはあの人が上手にやっていてそれが当たり前の作業だというようなことが、その当の本人が存在しないということが起こっている。

それが、自分が下手だということであったとしても、当然それは自分よりそのことをするのがうまい人が存在するからこそ「おまえは下手だ」ということがあるのであって、その基準がなくなってしまうのだ。

 

そして、死んでしまっては元も子もない、と言うことも感じる。彼がいかに私よりこの場にたつのがふさわしい人間だったとしても、死んでしまっては仕方がない。もう彼は田んぼにたつこともないし、かなづちを握ることもなく、ご近所にあいさつに行くこともないのだ。

 

多くの人は、私などより早くそういう欠如感をお感じになっているのだろう。自分もやっとそう言うことを感じるようになったわけだ。

 

また自分の大切な何かを持っていなければならない、と言うことも思う。

自分の周囲にいるのは、ほとんどがかなりのお年寄りになっている。おなじ身内が亡くなるにしても、年寄り、長生きの人というのは、多くの人々が自分より先に亡くなった人なのだ。そしてその人たちとこういうことをした、この人とこう楽しかった、ということが、多くの場合その人の人生の重要な部分を形成している。その人たちがいなくなってしまえば、多分、ほかに何もなければ、「次は自分の番だ」と思うのは必然的なことだろう。

そういうことがないようにするためには、自分が思うに、若い頃から、霊的な勇敢さを持って、新しい環境に自らを置くと言うことをしないといけないと思う。

そして、自分にとって大事な何か、一言で言えば信仰と言ってもいいが、お仕着せの信仰ではなくて、これが人生で大事なんだ、と思える何かを持っている必要があると思う。

親しい人の死」への2件のフィードバック

  1. ネコ

    はやくコメントをと思いながら、一番コメントしたかった記事なのに、ちょうど地震が起こってそれで、それで、、またいそがしくて、、いやいやそれもそうだけど、すぐには書けなかった。
    この記事の何日か前に、私は、親しい知人を亡くしました。天に召されたのです。年齢は私より上で、77才で、亡くなっても不思議ではないお歳だといえばそれまでだけど、77歳は、まだまだ今どきお若いですよね。その方は大変、熱心なキリスト教徒であられて、
    、いつも穏やかなお顔をされて、歌が大変お上手で、
    、何かいつもずっと遠くの世界を見つめているような目をされていた。私達夫婦をとても、大切にして下さった。私がその人と家族ぐるみで仲良くなってから数年経った頃から、その彼はなんだかちょっとあれっ?
    というような事が出て来はじめた。そうです、パーキンソン病からの認知症が出始めたのです。そして、奥様の事が解らなかったり、病院に入院しても「家に帰ってきます、」と言って徘徊。若い牧師先生が訪問して下さっても、自分の教え子だと勘違いして、「あんた、今、何処へ勤めとん?」と優しく訪ねる。などどこまでも優しい方で、認知症になったら人格が変わるなどという症例は、彼にはあてはまらなかった。地味な人で牧師を助け、伝道者を助け、まさに主の僕(しもべ)であった。その人が、パーキンソン病院で入院中の病院で、夜間、看護師の巡回の僅かの間に、心筋梗塞の発作を起こして誰にも看取られず一人で天に召された。天国に凱旋していった。
    そうです、神様に呼ばれたのたから仕方がないのです、でも、淋しいです。クリスマスの祝会ではAmazing grace を素晴らしい声で歌ってくれた。
    今頃は、神の用意された主の食卓についておられるでしょう。しかし、淋しいです。ご高齢の方々は、こんな淋しさを重ねて生きておられるのですね。
    主様の仰るとおりです。死んだら確かに田んぼも出来ない、釘も打てない、死んでしまったのでは仕方がない、確かにそのとおりです。でも、その人達は、次のステージに行かれた。全能の神の用意された次の世界に行かれた。私達に影響を残して、ステップを残して、そうです、でもやはり淋しいですね。

    返信
    1. simpledirect 投稿作成者

      ネコさん、こんにちわ。

      今回私が思っていることは、ネコさんの思っていらっしゃることとちょっと主題が違うかもしれません。
      しかし、ネコさんのおっしゃっている方はなかなか立派な方だと思います。

      自分も思うことがあったのですが、いわゆる痴呆、ボケ、今は認知症という言い方が一般化してはいますが、要するに訳のわからなくなった方、こういう方でも、ときどきどうやらとても幸せな方というのもおいでになるようですね。いわば、人間としての思考としては崩れているけれども、とても幸いな感情的な実、たましいの実を残している方がどうやらおられる、ということです。
      多分、その方も、とても幸福な部類の方のように思います。

      返信

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