いくつかの問題点がある。
1.擬態語の多さ
これはだんだん増えていると思います。食レポがそうですよね。シャキシャキだのプチプチだのカリカリだの、プニプニとか、いくらでも増えている。しかし、外国語にはこれはほとんどない。何らかの形容詞やたとえで表すだけだ。
2.輸入語の多さ
カタカナの輸入語がどんどん増えていっており、またどんどん変わっていく。男女一組の恋人同士の人、あるいは夫婦を表すのに「ゼブガーリ」というギリシャ語がある。最近の漫画でも「なんかいい感じじゃない?」みたいなのを「オレオ・ゼブガーリ」というような表現で言っている。しかし、日本語ではカタカナ語でも「アベック」みたいな死語になった言葉もある。カップルはいまでも使えるかもしれないが、いつまで使えるやら。
普通の教育を受けた、私と同じぐらいの年齢の方でも、多分「レガシー」という英単語を覚えていない人はたくさんいると思う。多分「遺産を訳せ」と言われれば「ヘリテージ」と答えると思う。先般文部大臣がマスコットを子供たちが投票して選ぶことによって「レガシー」になると言っていた。なぜ「遺産」とか「長く記憶に留まる」と言ってはいけないのか。
3.漢字と中国文化
一方で漢字もあるのです。クイズ番組で「正しい漢字が書けるか」みたいなことをやっている。聞いて、ざっとした意味は分かっているわけだ。だが漢字は書けない。また一つの漢字に読み方がたくさんある。有名大学を出たタレントさんがクイズ番組では答えられなかったりすることもざらにある。さらに、それの元となる中国の故事だとかそれも知らない人も多い。
ただ、その漢字を書き分けられることとか、中国の故事を知っていることがどれほど本質的なことなのか?同音異義語が多すぎるし、それを知っていて人生に意味があるかどうかわからないのに「どうだ、俺はよく知ってるだろう!」的な知識がものすごく多く、頭がいいということは「ガラクタを詰め込んでいる」みたいな感じになっている。
そういうことが、たとえばギリシャ語ではあまりない。ロシア語は少し発音は難しいが、それでも規則的だ。外来語もギリシャ語よりは多いが、いずれにしてもとにかく耳で聞けば大体わかる。
先日地域の話題でちらっと出ていたのだが、地元の人でない人がやってきて、何か改革を行うことができると、そういう人を「風の人」と呼ぶのだそうだ。なんでも都会の看護婦さんが全国から看護婦さんを呼び集めて、過疎地域の診療を可能にしたとか、いろいろ。そのことは素晴らしいことだが、もし「風の人」と口で言って、それを耳で聞いたなら「風邪の人」つまり「鼻水が出て熱が出ている人だな」と思うのが当たり前だ。
ディズニーさんはアナ雪の時は25か国語のLet it goを用意したが、今回も24か国語のHow far i’ll goを用意した。各国語に訳されているわけだ。各国の子供たちがアメリカやら日本やらのアニメを見る。その時に、そこに出てくる表現から学べるもの、ということでいうと、日本語の訳からは何かとても貧弱な語彙しか学べないのではないか?
そして大事な語彙はレガシーでございます、サスティナブルでございます、ということになってくると、その言葉がほかの言葉と内的な連関を持たない。漢語は「遺産」とか言えばそれなりに漢字の論理での連想連関がある。だが、歌の歌詞、日常会話ということになると、大した語彙は使えないということになってしまう。すごく貧弱で無責任なことしか話せなくなってしまっているのではないだろうか?
今は、政府なり学校なりがしっかりしてる。学校でひらがな、カタカナを学び、漢字を学び、英語を学んで、日本は学力が高いと言っている。しかしそういう世の中がずっと続くかどうかはわからない。
たとえばかつてギリシャがトルコに占領されて、公の機関でギリシャ語を教えられなくなったとき、ギリシャはイスラム教徒が入ってこない教会でそれを教えて伝えた。アクセント記号はあるものの、たった24文字を覚えればよい。口伝えで膨大な語彙も思想も伝えられる。
もし日本がそうなったら、多分今の日本語の全体を伝えるのは多分無理だ。
どうも、久々にネコです。
そうですか、日本語、危機的ですか?
確かに最近、擬態語が周りにいっぱいありますね。お料理番組に「シャキシャキとした歯触りを残して炒めて、さあ頂きましょう」とかよくありますね。他に表現の仕方は無いものか、と時々、思います。そうですか、外国語にはあまり無いのですか?中国語では、どう表現するのか、在中国生活の長い家族に聞いてみます(笑)。
私が思いますには、言葉は変遷というか、時代と共に進化していっているような気が致します。
ここ近年、よく聞く言葉表現、「嬉しく思います」これは上からの言葉表現だと思うのですが、最近、よく耳にします。(天皇陛下が新年の挨拶時などによく使われています)
相手に感謝や喜びの表現をするのであれば、「嬉しく存じます」だと思うのですが、、。
最近しきりと耳にする表現、「〇〇しづらい」「何々しづらい」これ、以前にはあまり耳にしなかったような気がします。最初、何を言っているのか解らなかったです。要するに、「何々しにくい」の事のようです。こんなこと思うの私だけですか?
日本語、語彙、貧弱ですか?
私は、申し訳なくも、映画が苦手な人なので、「モアナと伝説の海」「アナ雪」(絵本で読みましたが)「たたら侍」も観ていません。何年か前の新藤兼人監督の「一枚のはがき」を観たくらいです。
ですので、その話は出来ませんが、
先日、長年、俳句を学んでおられる人にお会いする機会があり、
少しお話したのですが、後日、その方が自作の俳句をラインで送信してこられ、返句をしようとして、季語をいろいろ探してみると、思いもかけない言葉が季語になっているのです。
訪ねてみると、この季語だけは、決まりがいろいろあるのです、とのこと。
調べてみると、その美しい日本の言葉の数々の季語に感動してしまいました。
今頃ですと、麦の秋 ですかね。「麦の秋 幼き日々の 夢を追う」
日本語もまだまだ大丈夫、など思わせられた日でした。
こういった表現、ギリシャ語などにもありますか?
ネコさん、こんにちわ。
記事を書いてから、確かに言葉の変遷みたいなことはあるし・・・とは思いました。
自分の感じている問題点は、多分・・・自分でも漠然としていたら仕方ないわけですが・・・一つの体系ということに収まっていないということだと思います。
日本語の語彙が少ないということではないが、ある場面で使う語彙が限られる。
歌の場合、あまり難しい漢語を入れるわけにはいかない。
和語にはそれなりに美しい表現はある。歌の中に、ある程度漢字の熟語が入ってもいいが、「不惜身命の思い」と入れるわけにはいかない。詩吟や浪曲ならいいかもしれない。歌舞伎でもありかもしれない。しかし、和歌には入れられない。多分ディズニーの翻訳にも入らない。
しかし、英語は28文字、ギリシャ語は24文字ですべてそれを表す。
特にギリシャ語はギリシャ語内のロジックですべてを表現しようと努力してきた。
その結果、ある場面で使うことのできる語彙が限られてくる。
おしゃべりはうまいが、あんまり漢字が得意でないタレントさんが、テレビのバラエティで何かをいうときに、そこで使える語彙が限られる。
そうしたいろいろな語彙が、バラバラの起源、バラバラの文字から輸入されたもので、別々の多数の文字、文化を学んで初めて使える。その学ぶべきものが膨大である。最初の敷居が非常に高い。
ギリシャ語でも頭のいい悪いはあるかもしれないが、少なくとも最初の敷居は低い。ひょっとしたら普段あまり目立たない誰か、あんまり頭がよくないと思われている誰かが、そこに使われている語彙を受け取って「こういう意味なのだ」と理解するかもしれない。
多分、歌手について感じていることも同じようなことなのだと思う。
日本の場合、民謡歌手は民謡を習い、ミュージカルはミュージカル、クラシックはクラシック、ポピュラーはポピュラーでそれぞれの分野が別々である。クラシック歌手が突然アニソンを歌ったりミュージカルに出たり歌舞伎をやったりはしない。しかし、どうやらギリシャ人にとってその垣根は低い。歌手は歌手なのだ、と考えている節がある。
日本が貧しいというわけではなく、豊かなのかもしれないが、全体を保つということは多分難しい。
俳句はなかなかいいと思います。
決められた文字の中でいかにそれを表現するか、1文字3文字で全く違う広がりを表現できる。
われわれの祖父母世代の流行歌(古賀政男・李香蘭・藤山一郎・霧島昇等々)を最近よく聴いたりしているんですが、擬態語・カタカナ語ってほとんどないですね。父母世代のヒットソングにもあまり出てこないですね。
日本人の平均的教養はかなり高く、経済的も豊かで世界一翻訳書が多い。。。といったあたりが、日本語の変化が激しい理由じゃないでしょうか。
漢字に読みがいろいろあるのは表意文字で、母国語が違う民族が漢文を公用語としたからのようです。
灸太郎さん、こんにちわ。
祖父母世代、いいですね。確かにその時代カタカナ語はあまりありません。
最近の方でもアイコさんとか、綾香さんとか、あまりカタカナ語を使わない歌もあるように思います。
日本語についてご指摘のことはわかるように思います。ですが、これはこれで別の危惧です。
灸太郎さんの場合には、サンスクリットがチベット語に翻訳されるときの経緯とか、そういうことはよくご存じの方だと思います。自分も頭でわかっていても、いざ現地の言葉でニュースとかを聞き始めると、「これで完結しているんだ・・・」というのが驚きです。
日本語の場合、最後には古代エジプトみたいにロゼッタストーンができて「一番下が英訳で、その上が漢文ですが、一番上の日本語の読み方がわかる人はもはや誰もいません」みたいなことになるのではないか、ということなんです。