昨日、お返事するものをして、疲れに襲われて寝床に入った。と、突然ある町のミスタ○ド○ナツの光景が浮かんできた。
ミスタ○ド○ナツは好きだったが、そういう話ではない・・・そこは、毎日訪れるようなところではなく、たまたまその日限りの仕事で、場所に集合するのにある程度余裕を持っていって、時間がまだ早い。そこで入ったミスタ○ド○ナツの茶色と黄色の椅子とテーブルが並んでいる光景だ。入って、仕事の開始時間を待つ間、慣れない仕事に不安で手順を確認したり、その他の仕事や生活の、あれもこれもどうしようかというような、なんだかんだを考える。
そこで見る黄色と茶色の椅子はなんとも複雑な気持ちなのだ。
いろいろ連想であちこちのミスドを思い出す。別にオ○ルドファ○ションがどうこうじゃない。
ひとりになりたいとき、ノートパソコンを持ち出して、ミスタ○ド○ナツにいき、コーヒーをおかわりして、仕事をしたり、考えをまとめたりする。空いていれば、少しぐらいの長居で怒られないこともいい。
今は半径5kmに飲食店らしい飲食店はない。父母の相手をして、煎茶を注いだり大根を噛んだりするのが「お茶」だ。
実のところ、この点については最近少し不安だった。これほど生活が変わったのに、以前のことは何も関係ないかのように過ごしている。だが、あせってはいけないと思い、以前のことはそのままにしておいた。
それが昨日は突然記憶が開けた。放っておけばよい。自然にそういう時は来る。
そうではあるのだけれど、あの瞬間にはこれほど大切だと思えることが、別の空間では全く思い出されることがない。言い換えるならば、今目の前で散々に悩んだり苦労したりしたことが、全然記憶のたんすの奥にしまわれてしまって・・・本当はたんすではない、立派な部屋だし宮殿なのだが・・・思い出されることはないかもしれないわけだ。
毎度のことだが、前世がどうこうっていう人がいるが、そんなに問題なのだろうか。10年やそこらの記憶でさえ、自我の器に盛りきることはとてもできないというのに。