ここ数年、身近な人が死んだり、病気のことを色々聞いたりする機会が増えて、いろいろなことを考える。
そうしたところで、たまたま・・・この間の医療の話の続きで・・・武田邦彦先生が、天寿と寿命と題して語っている話を聞いた。
サケは産卵するとすぐ死ぬ。哺乳動物のメスは人間を除いて生理が終わるとすべて死ぬ。動物は自分一人で生きているのではない。誰かの役に立っている、奉仕しているから生きているのだ、見たい話をされていた。
仕事をしてる人と、仕事をやめて遊びまくっている人を見ると、もちろん仕事をしている人の方が長寿です。
これは当たり前でですね、僕には当たり前のように見えるんですよ。
人間の天寿というのがですね、動物も全部そうなのですが、他人に奉仕することですよね、だからその社会に存在価値がなければ死んでしまうわけですよ。
サケのことは自分もよく考えていた。他の生命体は子孫を残すと大抵は死んでしまう。蝶とかセミとかもそうだ。
武田先生には、人間についても、それが当たり前に見えている、というのがショックだった。奉仕をしない人間は死ぬ。生きる理由のないやつは死ぬということか。
本当は人間の場合は他の動物とは違う、子孫を残すだけではないと私自身は思っている。物質的な存在として考えれば、他の生命体の存続のために生きるというのは分かるが、違うレベルもある。それが占星術だったり、キリスト教だったりする、別の真実だ。
が、それでも武田先生の説には、多くの真実があるように思えた。
自分の周りの人々、一人一人のことを考えてみた。この人の生きる意味は?この人は生きていて、他の人の役に立っているか?死んだこの人は役目を終えたのか?
この人は、自分の畑で取れた作物を、あまり惜しげもなく、他人に分け与えたりしてきた。この人はどうなのか。
私はどうなのか。自分の人生の、考えればいろいろ恵まれていたと思う、それは他人に奉仕されているか?
そういう思考がぐるぐると頭の中を巡った。
こうも言っていた。健康に気を使っている人は短命である。フィンランドで大規模な調査があった。1200人を2つのグループに分けて、ひとつのグループは健康に気を使ってもらい、もう一つのグループはやりたい放題にしてもらったら、健康に気を付けていないグループのほうが長い木だったという。
そして先生はこれも当たり前だと言った。
私なりの理解で表現すれば、自分のリソースを自分の個体を永らえるためだけに使うグループが長生きするはずがないというわけだ。
たとえば金持ちもそうなのだろうか。
金持ちは病気に対しては多くの物質的な防御手段を持ちうる。病院にも行けるし薬も買えるだろう。体にいいと聞く食事をそろえることもできるかもしれない。そういう意味では貧乏人より長生きするかもしれない。実際貧富の差の大きいアメリカなどでそういう調査結果はあるようだ。
しかし、もし武田説が正しければ、「金がなければ生きていけない」と考える人は、長生きはしないだろう。「年金があるから、貯蓄があるから、人は生きる」わけではない。そのおじいちゃんは金も何もないけど、子供たちの面倒を見てくれる。そのおじいちゃんは長生きするかもしれない、ということになるだろう。
金がないと老後が暮らせない、と考える人よりは「金はないけど、それでもどうしてもこれはやらなきゃ・・・」と思う人の方が、長生きするはずだ。
いろんな人の言葉が頭をめぐる。
私に教えてくれた司祭さんは、東京(つまり当時のニコライ堂の人々ということだろうが)に対して、文句を言っていた。「金がないからできないじゃないんだ。これをしなきゃいけないから、それに対してこれだけ金がかかると考えないと、何も進まないんだ!」とか。
ドン・ファンがカスタネダに言っていた。「ナワール・フリアンがいうには、俺の両親は俺を生むためだけに生きたのだそうだ。俺の両親の両親も又同じだったというわけさ。・・・戦士は自分が人生に対して支払った犠牲を理解できるだけ集合点を動かすという点で違っているんだそうだ」
今日はね、今日は結論は出せないよ。確かに、いま家族や親族で、私を必要としてくれている人もいる。仕事先もそうだ。だがそれで十分なのか?
これは自分は今考えてみないといけないことかもしれないね。
100才の大叔母が亡くなりそうです。
我が家の家系は長生きが多いです。が、それぞれ何かの役に立っていたかと問われると、そんなことないかなあ、と。
ただ存在しているだけで家族のよりどころとして役に立っていた、ということはあるかもしれませんが・・。
メスは生理を終えると死ぬ、なんて知らなかったです。人間は、下手したらそこから倍生きるのですね。
あめさん、こんにちわ。
100歳でいらっしゃるということになると、どう申し上げていいのかわかりません。
たましいにとっていい方向になりますように。
それぞれ何かの役に立っていたか。そこですよね。でも、多分何かはあったのではないでしょうかね。何か、気にかけているというようなことだったにしても。