あの、高血圧なんとかという件でまた武田邦彦さんのブログの動画を聞いたりした。
彼は尊敬すべき学者さんだと思う。で、結果的にデータから導かれる結論として、彼の言っていることの多くは正しいと思う。
一方で、理性の出す結論というのは、つまらん。つまらんというか、多くの場合人生を左右するような動機にはならないと思う。
理性的な結論を支えるデータというものがある。だがこれがなかなか難しい。
理性的な結論というものは複雑な研究からもたらされるかもしれない。建物を全部スロープにしたら身体障害者の出入りはスムーズになるかもしれないが、子供の脚力は弱くなるかもしれない。ある数値が変わると、心臓病は減るかもしれないが癌は増えるかもしれない。そうしたものを満足させる理性的な結果というものは、本当に微妙なものになるかもしれない。
だけど、人間はハートで動く。ハートはアホで、そういう難しいデータを管理することができない。たとえば「血圧が低い方がいい」といえば全く低い方がいいと思う。
「エゴマ油がいい」といえば、エゴマ油ばっかりとってるのがいいように思う。飽和脂肪酸がダメだ、ということになると、まったく肉を食べないのがいいかのように思う。
だが、それではだめなのだ。
しかし、多分その複雑な結論を、舌は一瞬で感じ取るかもしれない。ひとなめしただけで「これが今身体に必要なものだ」とわかってしまうかもしれない。
異性の選択などというものは最たるものかもしれない。趣味40点。体の相性60点。知性53点。安楽に感じる環境70点。経済力30点。
だけど、一目会っただけで「もうこの人しかいない!」というのが、恋愛ってもんじゃないのか?
今はインターネットがあって、世間に出回っている情報の集約が簡単に進んでしまう側面がある。昔は、その情報は簡単に手に入らなかった。Webの世界で、いろいろ他の人の疑問に対して「こうですよ。こうですよ。」と親切に説明しても、次々知らない人が出てくる。一方で、何年の公会議でこの教義が決定しました、なんてのは誰も逆らいようがない。ルターは知らなかったに違いない。彼の時代、あらゆる文献に目を通したりは出来なかった。だが、今はニカイア・コンスタンチノープル公会議の結果決まった信仰箇条を、ど素人が10分で調べられる。
だけど、お前、それ理解してるか?理性の出せる結論、情報の出せる結論が安くなった。多分それを決めた人はそんなに簡単にその情報にアクセスできることを想定していなかった。
「こう決めておけば、人々はそれを唱えて、その中に隠された真実をきっと発見してくれるだろう。」ちょっと待て。10分でわかるのにか?いやいや、それを考えた人はこの情報がそんな風に使われることを想定していなかったはずだ。
この安易さが永遠の反論を呼び起こす。
ある人は延々と肉を食ってはいけないと訴え、ある人は延々と肉を食べると長生きすると訴える。
なるほど、適切な反論というものもあるかもしれないが、いずれにしても、その肯定や反論を支えるにはそれはそれで膨大なデータ的な裏付けが必要になる。それを各々の人間がすべて自分の中に取り込んだうえで、冷静な議論ができるか?
そんな穏やかな姿が一体どこで見られるのか。
理性の出す結論は安い。それには人生を変えるほどの力はない。
それに代わるものは、信じることだ。信じるというのは、多くの人が思っているほど安くない。それはこころの知識、ある種の安定、沈黙の力だ。