昨日寝ていて、何かの拍子で田んぼのことを考えていた。今、水加減とかを色々気にしないといけない時期なのです。
そしてカエルか何かの声。
これはウシガエルだろうか。
そして、ウシガエルの声が私を宝ヶ池の記憶に導いた。
自分は京都で会社を辞めて自分で仕事をすると決めた時に、とにかく体力が必要だということで、毎日宝ヶ池の周りを歩くことにした。それは夜だったりすることもあった。
国際会館の裏側、会館が見えなくなるところの辺に差し掛かると低いウシガエルの声が聞こえた。ちょうど、今のような温度、皮膚感覚の時期だったと思う。
池にたれるように伸びている松の枝。ボート乗り場。暗がりで照らすゴルフ場の照明。石ころの散らばる道。何かのドラマの撮影で藤原紀香もやってきた、池の傍の小さな休憩所の建物。
それでも、私は完全にそれらの感覚を呼び起こすことは出来なかった。もうちょっとでその感覚を再現できそうな気がするが、しかし、それは遠いもののような気もした。
もし、完全にその感覚を呼び起こせば、私はそこにいると思う。
私はそこにいないじゃないか。私は自分自身に言った。私は自分自身をけしかけた。
その暗がりの感じ、ウシガエルの声の響く静寂、肌に感じる湿った空気。
そして、もし私がその感覚を全く思い出すことができれば、私は宝ヶ池にいることができる。
もしそうすれば、宝ヶ池にいる人は、私がそこを歩いているのを見るかもしれない。
ですけど、結局できなかったですね。そうしたかった。そして、その後のリアリティは別の光景になった。
記憶ってなんなんでしょう。
主さんがおっしゃるような、自分がそこにいたときの、風景やら感覚やらの記憶バージョンと、
自分は自分なのに昔の自分を傍から見ているバーシーョンの記憶、があるのです。
後者は現実では自分で見ていないはずなのだから、記憶というより記憶をもとにした妄想、なんでしょうか・・。
完全に記憶を呼び起こせれば、自分はそこにいる・・なるほど、ですね。
それはなんだかわかる気がします。できないけど。
あめさん、こんにちわ。
昔の自分を傍から見ているバージョンですか。
自分はそれはないです。が、とりあえず理性的な推理でそれをむげにされないことをお勧めします。本当に見ていたのかもしれませんし。
多分、見える人は記憶にないことを記憶のように見るのだと思います。実際にそこにあるということ、夢で見るということ、記憶で思い出すということ、こういうことの間には本質的な違いはないのだと思います。