最後の晩さんで、キリストは自分が去ること、去ったのちに弟子たちに助けになるべきものが来ることを説明されたが、その際、そのもののことを
τὸ πνεῦμα τῆς ἀληθείας
と言った。正教では「真実の神(しん)」と訳されている。正教は、πνεῦμαの訳語として霊は適当ではなく精神の神の字が正しいと感じたわけだが、それだと「カミ」の神とごっちゃになってしまう。そのため、申の肩のところに小さな〇をつけて区別する・・・とてもややこしい。
しかし、そういう選択をしない、たとえば聖書協会の口語訳では「真理の御霊(みたま)」などと訳している。こうするといかにも幽霊みたいな霊魂の実体が煙か漫画のエクトプラズムみたいにやってくるかのように聞こえる。それは確かにニュアンスとしては違うと思う。
また日本語で「真理の御霊」「真実の神」と書いた時に、「真理」「真実」というものが、聖霊を形容しているのか、どうつながっているのか、わかりにくい。それがたとえば
τὸ πνεῦμα τὸ ἀληθινό
だったとすると、あちこちに本物やまがいものがいっぱいあるうちの、偽物や虚偽のスピリットではなくて本物のスピリットだよ、というような意味になるだろう。
しかし、実際にはここではτὸ πνεῦμα τῆς ἀληθείαςだ。ἀλήθειαは独立した単語で属格形である。つまり、このスピリットは真実を告げ知らせる、このスピリットはあなたのうちに真実を明らかにさせ悟らせるところのスピリットだ、ということになる。
よく、禅の人とか、修道士さんとかでもそうなのだけれど、「私達は体験を大事にします」みたいな言い方をする。修行して自分で見たもの、自分で獲得したものでなければ意味がないのだ。本を読んだり、その本の内容を信奉するだけでは本当の理解は得られない。彼らが体験だというときに、明らかにそういうことを言いたいわけだ。
しかし、一方で、真理が明かされるのが体験・経験によるのだ、という言い方は、全然不適切なのだ。おそらく彼ら自身、その矛盾に気が付いているはずだ。気が付いていなければ悟ったことにはならないよ。悟りは体験ではない。
本当は神秘的な悟りだけではない。あらゆる知識、あらゆる理解、「わかった」ということは体験ではない。その実体は体験ではない。目の前にあることが現実化したということ。英語はリアライズなどというきれいな単語がある。当たり前のことが当たり前になることが理解なのだ。
自分はそういうことを説明しようとして、理解とは世界に対して自分を開くことだ、などと言ってみたりする。
キリストの説明を日本語訳すると、まるでキリストのほかに聖霊さんという目玉おやじみたいなやつがいて、キリストがいなくなった途端にやってきて、鬼太郎のおやっさんみたいに話しかけるかのように読んでいる人も結構いるのではないだろうか。
しかし、実際には「わかる」ということがあるときには、その裏に聖霊があるわけだ。知識は我々にいつでも明かされる。それは経験によって対応が左右される、つまりコンピュータが将棋の可能な指し手を数手先までシミュレーションして間違わずに指すことができるというのとは違う。
もちろん超えるべき決定的な敷居というものはある。それでも、聖霊というのは全然別世界のなんかよくわからん化け物みたいなものではない。その禅の人や修道士が体験でないとわからないと言っているのは、言い方を変えれば聖霊でしかわかることはわからないということを言っているのだ。