輪廻というのは、一般的には生まれ変わりのことだということになっている。
生まれ変わりという現象について、確かに我々はいくつかの例を聞き及んでいる。アメリカの大学で、子供が前世について語っているのを数千例も集めている研究者がいる。その中には、実際に歴史上の人物との行状が子供のいうことと一致しているものがあり、しかも、そのうちの数例は、生まれてから後にその話を聞いたといったあらゆるほかの可能性を考えても、わかるはずのない一致をしていると確認されている。
つまり、生まれ変わりはあるわけだ。
しかし、こうして観察される例は、逆に言うと、ごくわずかしかない。ほとんどの人は前世の記憶など持っていない。ときおり観察されるこうした例をもって、「来世は虫に生まれ変わる」みたいな発想にもっていくのは、少し飛躍しすぎている。仏教でいうような六道輪廻、神・阿修羅・人間・畜生・餓鬼・地獄の間のような永遠の生まれ変わりみたいなものは、この観察例から帰結するには突拍子もなさすぎるように思える。
「硫黄島の兵隊であったライアンは数十年後にアメリカでジェイムズ・レイニンガー君として生まれ変わった。だ・か・ら・・・あなたも来世は地獄に生まれ変わるかもしれない」
というのでは、説得力がなさすぎる。ピタゴラスみたいにある個体からある個体に転生することがあり得る、ぐらいのところまでは言えるかもしれないが、インド的な輪廻を説明するのには別の根拠が必要のように思える。
結局、その根拠は「神」なのだと思う。「神」というのはインドの考えでは誤解を生むかもしれない。この「神」は西洋的な神であって、インド的な言葉でいうとブラフマンということになるだろう。
現象がバラバラの個物に帰する、という考え方は、原子論に帰結する。生まれもなくなりもしない粒粒の原子があって、それが空間に浮いている。それらの組み合わせで現象が起こる。デモクリトスや六師外道のアジタ・ケーサカンバリの考え方だ。
しかし、預言者たち、知者たちは、実はそうではないということを発見した。すべての現象は結局は計り知れない一つの源から来ており、それは生きていて意識を持っている。「私」は個人で意識を持っているわけではない。彼が意識を分け与えているのだ。
目の前の現象を我々は当然のように原子論で説明する。
雨が降る。雨は粒粒で、肉体という別の物体の上に落ちてくる。水は肉体から熱を奪い、寒く感じる。
しかし、雨が降るという現象自体はあったとしても、それを原子論的に説明しないといけないということはない。そこに降る雨は網膜に映る雨である。感覚として冷たいという感じるという事実があり、網膜に映る雨という現象があり、それらを我々の理性が解釈して「雨が降る」というが、本当は雨がそこにあるわけではない。そこに独立した、我々が構成した三次元の世界があるという解釈は、ちょっと考えると何の根拠もないのだ。
そして、それを預言者たちは違うものとしてみた。
ということは、雨に降られている「私」というのも、最終的に原子論で説明する必要はないということになる。原子論で説明するから、「崩壊する」「死ぬ」「消える」ということになる。しかし、彼から意識を預かっているだけで、最終的な実体が上からのものであるなら、哲学的な帰結として「私」は死ぬ必要はない。
「外の暗闇」に追放されることは過酷なことであり、何十億年だか知らない、長い長い間鉱物のような冷たい意識に閉じ込められるとしても、なくなりはしない。
多分、インド人はそう考えたのだろう。浅学で、彼らが輪廻の起源を論じたものは知らないが、おそらくはそうなのだろう。