くだけた席で、おやじギャグを言う人がいて、その話題になった。なぜ、おじさんはおやじギャグをいうのか、というのはNHKの「チコちゃんに叱られる」でも取り上げられて、年を取ってくると、それを口にしたくなる衝動を抑える機能が弱くなるのだ、みたいなことも言っていた。
自分はロシア語とかギリシャ語を勉強していて、それほどもおやじギャグはないと思う。ジョークのようなものはある。ロシア語ではアネクドートという小話がいろいろあって、それはブラックユーモアの内容のものなのだけれど、でもおやじギャグとはちょっと違う。
外国語でギャグっぽいものをググってみると、よく聞くところでは
See you later, aligator
みたいな韻を踏むものはあるのだけれど、日本語ほどはない。いや、私が知らないだけなのかもしれないが、それでも多分日本に比べられないと思う。
なぜ日本語にそれほどのおやじギャグがあるのかというと、同音異義語が多いからだと思う。特に漢語の同音異義語は数限りなくある。
自分は、勉強はしているけれど、ロシア語やギリシャ語のギャグについてそれほど詳しいという自信はない。だけど、多分そんなにおやじギャグはないと思う。多分英語より少ないだろう。
なぜそう言えるのかというと、ロシア語やギリシャ語には活用があるし、言葉がお互いにくっついて漢字の部首のように新しい単語を作れるのだけれど、それはみな聞いてわかるように作ることができるから。言い換えれば、聞き間違いが少ないように作られた言語だと言ってもいいかもしれない。
感じの部首の場合は、作も昨も「サク」と読む。しかし、αναμονήとυπομονήなら、おなじμονήについた意味でも、発音自体で必ず変わるから、そういう類の同音異義語は決してできないのです。
そういうことは色々感じる。たとえばクロスワードパズル。男性名詞なら必ずΣ、女性名詞なら必ずΑかΗで終わると決まっているような言語で、クロスワードパズルをして面白いだろうか?多分右下のマスはΣかΑかΟなのだ。
とにかく、日本語は同音異義語が多い。それだけではなくて、同じ漢字でも様々に読むことができるから、一応ひらがなと漢字がわかるだけでは、間違って読むかもしれない。さらにさらに、同じ漢字でも複数の読み方がある場合がある。「生者」は、ある場合には「せいじゃ」と読むかもしれないが、ある場合には「しょうじゃ」と読まなければならない。
さらにさらにさらに、同じ日本語の言葉に複数の別の漢字が当てられていることがある。昔、「さかな」というのは酒菜だった。それが肴になり、魚に充てられるようになった。
それが、果てしなく複雑な読み方や漢字の知識が、日本人のエリートの知識として広まっていることに対して、自分は非常に危惧を感じます。それ、本質的な知識じゃないじゃないか。
自分が高校のころ、数学の先生で・・・誰とは言わないが、存命の方なので知っている人は知っているだろう。ごめんなさい・・・代入のことを「ぶちこむ」という人がいた。
「このエックスにこの値をぶち込んでやれば、答えは39だ」
みたいな調子である。
考えようによっては、この人は正しい。全部和語で聞いてわかる言葉にすればいいのだ。ダイニュウでも変換候補は2つ出る。結局聞いてはわからないわけですよ。
占星術でも、惑星があるサインに進むことを「イングレス」という。おひつじ座にイングレスしたなどというわけで、それが正しいことだと普通日本人は思う。だけど「入る」でもいいじゃないか。「進む」とか、これが日本語での表現だと決めてしまえばいいのだ。日本人はそれをしない。
そういうわけで、恐らくおやじギャグは日本でだけ甚だしく発達した現象なのだと思う。