民放のニュース番組、情報番組を見ていると、大体どの番組も一様に、タイトルの横に2文字か、場合によっては3文字・4文字で小さなタイトルが出ることに気が付いた。
このニュースでいうと「コンビニ経営の市議が同僚にマスク優先販売」の横にある「物議」という2文字ですね。
色々なパターンがある。「今日」とか「最新」「久々」のようにその時を表すもの。「韓国」「北朝鮮」のようなニュースの問題になっている場所を表すもの。「中継」のようなものもわかる。ダイレクトにお伝えしている、というわけだ。
上記のような「物議」のほか、「話題」「不安」「懸念」「悲劇」「窮地」「驚き」みたいな、感情や、記事に対する判断を示すものもある。藤井七段のニュース記事には「熱戦」とか。
しかし、どうもこの2文字が気になる。
「悲劇」とか、この一定の感情、判断を押し付けられる感じがどうも好きになれない。
大変なことが起こったかもしれない。だけど、それが悲劇であるか、不安であるか、全然平気であるか、それは私が決めたい。その印象は私に決めさせてくれ。
ちょっと前にありましたね。取材に来ると、ものを投げつける騒音おばさんみたいなのがいて、テレビが当然の悪者としてカメラを回している。しかし、実はこの騒音おばさんの周りには某宗教団体みたいなのが固めていて、執拗な勧誘やら選挙運動などがそれ以前にあったり、ずっと周囲の人間が大声で何かを唱え続けているというようなことがあったのち、しびれを切らしたおばさんに対して組織的に騒音おばさんとして取材したとか何とかという話を聞いた。
そこに行ってないから、自分はわからないよ。だけど、そうかもしれない。テレビがそういう事実があったことを報道するのはいい。カメラに泥を投げつけるおばさんがいた。それは事実かも知れない。しかし、それ「悲劇」なのか「困惑」なのか「決断」なのかをニュース番組が判断するのは僭越だと思う。
たとえば今回河合議員夫妻の買収疑惑が報じられました。あれを見て、恐らく多くの人はダメじゃないかと思っていると思う。しかし人によっては、他の議員だってやってるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。見方、判断というものはかなり違った形で存在しうる。
その判断結果を目立たないように表示するというのは、一種の心理的な暗示で、一瞬ちらっとそれを見せるだけで「あっ、これはダメなことなんだな」という事前の判断を与えてしまってると思うんです。
それは大きな意味で、嘘、フェイクニュースだと思う。