先日「チコちゃんに叱られる」で、この質問が取り上げられたんです。それで答えは「論理的な考え方を身に着けるため」みたいな内容で、東京大学かどこかの数学の先生が出てきて何か説明していました。
いや、それは違うでしょう・・・
ピタゴラスが言うみたいに「世界は数で出来ている」というほうがずっと正しい。
たとえば、重力みたいなものは、物体に常に下向きの力がかかるから、ものの軌跡は2次関数のグラフと同じ形、手っ取り早く言うと放物線を描く。そこまでは高校で数学を学ばれた方は、誰でもお分かりのことだと思います。
じゃ、ボールを投げました。運動を計って、あるいは目視で確認するとか、いろいろ現象に直面した結果、確かにそうなっていると確認できたとします。ああ、確かにボールを投げた軌跡は二次関数の曲線になるんだな、そういう現象が起こっているんだな、と理解しました。
問題は、私という個人がこの事実を理解したときに、この数学的な理解、数学的な事実そのものは、どこにあるのか、ということです。
多くの人は、その現象を私という個人が脳の中で理解したと思っているかもしれない。ではその数学的事実は脳の中にあるのか?でも、その数学的事実は、ソコ、つまりボールが飛んでいる現象の世界そのものにあるんじゃない?
そうすると、理解というのは脳の中にソコのコピーを作るのだろうか?だけど、こういう考え方をすると、人間の可能性として、すべてを理解するということは、膨大な現象世界のすべてのコピーが脳の中に納まらないといけない。そんな、バカな!このちっぽけな脳の中に世界のコピーですって?それはおかしくないですか。
ちょっと難しいかもしれないけど、理解されるべき数学的実体は「ソコ」にあって、我々はそこに開いているだけ、あるいはソコと我々を区分するものはない状態で、初めて「理解」なんです。
で、数学を学んで我々がそれを理解するということは、その現象世界、実体自体が、数学的な事実に基づいて構成されていると考えるほかないでしょ?だから数学を学ぶんだと思います。
深い・・・。そもそも
ものの軌跡は2次関数のグラフと同じ形、手っ取り早く言うと放物線を描く。そこまでは高校で数学を学ばれた方は、誰でもお分かりのこと
>そんなん数学で習いましたっけ??状態。あー、でも商業高校だからなぁ。関数とかあまりやらなかったかもなぁ。⇒なんて週に3時間程度だったし、教科書全部おわらなかったような・・(←おいおい)
こんな人が世間に多いから?東大の教授の論でも違和感なく受け入れられるんでしょうね。すみません^^;
あめさん、こんにちわ。
ソフトウェア開発で知り合ったある人がいて、この人はちょっと有名な国立大学を出ているのですが、奥さんが
「誰でもあんたと同じようにできると思ったらアカンで。」
と仰ったとか。
そうですね。たまたま自分はそういう理解をしていたけれど、誰でも同じというわけにはいかない。
一度記事にしてみましょう。