真実はすぐにすべての人に伝わらない。いや、それが真実でない場合もあるかもしれない。誰かが自分が絶対正しい回答を得ていると考える。「これが答えだ!」そして、彼はすぐにもすべての人がそのことに気が付いて、世の中がその方向に走ると考える。
しかし、そんなことは絶対にない。その人が勇気ある人で、それが真実だと訴えかけたとする。何人かはその考えに共鳴し賛同してくれるかもしれない。しかし、必ずそれに反対する人も現れる。仮に賛同してくれた人であっても、その真実のすべてがわかっているわけではないかもしれない。
逆に真実を受け取る側の一人として考えると・・・それが真実であるかどうかもわからないわけだが・・・結局のところ、何が真実か最終的に確認することなく、行動することを求められる。
正直なところ、このことには多くの考えるべき問題があると分かっているのだけれど、どこに着地していいのかわからない。
- 多分、一般的にこれは一つのパターンとして学説にすることができるだろうとも思うんです。自分の行動、何が正しいかを判断する一つの考え方。
- 何が判断したらいいかという問題。理性の限界と考えることもできる。しかし、感覚や感情が騙せるものだろうか。第六感はどうか。
- 占星術、占いはそうしたものの最たるものだということ。占いはある意味最終的に何が真実なのかわからないまま話を進めなければならない。にも拘らず、何かを言い当てている。このことが占いの批判を集める原因になっている。根拠がないじゃないか!しかし逆にもっとも真実なのかもしれない。
- 種まきの譬え。福音書にある種まきの譬えは、まさにこのことを一般的に言っているように見える。人の子がまく種は、人がなかなか理解することができない真実を指している。しかし、それが実を結ぶことは少ない。ある場合には鳥がついばみ、ある場合にはいばらがそれを覆ってしまう。
だけど、これは何かあるときには考えてみないといけない問題だと思います。あなたがその行動をする、その行動の真実は何に担保されているのか、ということに直結するから。
まとまらないけど、今回はここまでにしておきます。