聖三者の解釈・論争というのは、本当はまだまだ続く。続くのだが、しかし、一般的に日本人が教科書や書店の本で知りうる内容というのは大体(5)で説明したような内容になる。
だが、これでは本当にただの絵空事の図を見ているようで、そもそもキリスト教徒というものが正確にそれぞれの概念を意識していたのか、どの程度いわば「感じ」取っていたのか、現実味がないと思われる方も多いだろう。
実は教会は、かなり正確にその概念を把握しており、伝えようとしていた。それは正教会の祈祷のなかでは驚くほどきちんと整理されて表現されている。
早課が始まる時「光栄は常に聖、一体にして分かれざる命を施す三者に帰す、今もいつも世々に」と司祭がいうわけだが、日本語で「一体にして」というのはὁμοουσίωなので、我々が歴史で習うとおりの概念がそのまま使われている。「命を施す」というのはζωοποιῶという言葉なのだけれど、ζωοはzooであって、命のことで、ποιῶというのは英語でpoemなどの言葉の語源になっている創造するという言葉である。
この後聖霊を呼び求める祈りがあるが、この中で聖霊は「天の王、なぐさむるものや、真実の神(しん、と読む。正教会では霊といわずに神という訳語を使っている。神とは別です)、あらざるところなきもの、みたざるところなきものや、万善の宝蔵なるもの、生命の給うの主や」と言われている。
また、音楽の好きな方はカトリックさんでSanctusの聖歌があるのをご存じだろうと思う。イザヤの書から取られ、聖変化前の重要な部分で歌われるものだが、これは正教会でも同じである。この部分に先立って司祭さんが何を言っているのかというと「私たちが感謝し伏拝する神様の性質というものは、これこれこういうものなのですよ。そして私たちを救うためにずっとこういう働きをしてこられています。その周りにはセラフィムや沢山の使いがいます、そしてその使いはこういっています」というような祈祷があって、それに続いて実際の「聖、聖、聖なるかな万軍の主」というのが唱えられる。
で、その問題の神はどういうものなのかという部分だが、
「表現しがたい、思い描くことのできない、見えない、理解することのできない、常に存在し、自ら存在する」
と言っている。
「表現しがたい、理解しがたい」と表現しているというのは一見矛盾しているようなのだけれど、実はこれは正確に「父」のあり方を表現している。この後祈祷文では「あなたと子と聖霊は」という意味合いの言葉が聖三者のものとして続きはするのだが、しかし、単独に聖霊について述べた祈祷と比べると、そこで理解できる神の姿というものはいろいろ違うことがお分かりになるだろうと思う。
つまり、被造物に直接的に遍くいきわたり、私たちにいわば接するような形で命を与え育んでいるのが聖霊であるのに対して、それ自体で存在するとわかっているものの、我々からしたらついには触れることのできない神そのものである父の姿である。
だから、ひょっとすると一生懸命本を勉強して、やれどの聖人がああいった、この神学者がこういったと言っている人がわからないようなことを、毎度朝晩教会に行っているギリシャ人のちょっとしたおばちゃんのほうがよくわかっているかもしれない。
そして、その姿というのは・・・ユクテスワ師が指摘している7つの世界の姿とそれほど矛盾しているようには見えないのです。
このシリーズの考察、とても興味深いです。
仏教の素人が仏教入門書を読んでも
ほとんどその核心部分に出会うことが少ないように、
キリスト教の素人がキリスト教の入門書を読んでも
こういう記述になかなか出会えません。
もうちょっと詳しく知りたいです。
個人的には人間の霊的成長と、三位一体の関係がしりたいですが、いかがわしいオカルト系のキリスト教論でもないかぎり
書いてある書物に出会わないのが残念です。
灸太郎さん、こんにちわ。
いずれにしても、もう少し記事を続けます。