夢見のことを聞かれた。
人々は明晰夢と呼んでいる。
私は明晰夢がなんであるのが、厳密なところは知りません。多くの人のいうところでは夢の中で自覚があるのが明晰夢なのだという。
私はカルロス・カスタネダの書籍で夢見の概念に触れた。
彼の書籍では、夢見ということを扱うために、より大きな文脈の様々な概念が要求される。夢が明晰だ、不思議だ、という出発点ではなく、最終的には見るという能力があること、見ると人間は大きなマユのように見えること、右肩の後方に集合点と呼ばれる点があって、それが意識の状態を決定しているということ、夢見が発達すると夢見の体と呼ばれるもう一つの体が実体化すること、夢見によって遠方に旅できること、隣接する世界に非有機的存在というのがいて、夢見をするとその世界と行き来することになるということ、などなどだ。そして、それが単に突拍子もない現象であるというだけではなく、何がどうなったときにそういう現象が起こるのか、詳細な説明を加えている。
彼の著作の中のほとんどは、私にもわからないことだらけだ。だが、その話の筋道ははっきりしている。
すごく突拍子もない事柄、たとえば非有機的存在だとか、3000年生きている人とかが確認できたわけではないのだけれど、たとえば夢見の最初の段階は確認できたわけだし、私が確認できたいくつかのことにしても、ほかの人に説明してもたぶんわかってもらえることではないと思う。私自身はその説明を必要とする状況にあった。
夢見の設定は、まず教室の夢を見ていたら、教室からほかのところに飛んでいくことのないように夢をコントロールすることから始まる。このためにカスタネダのお師匠さんのドン・ファンは夢の中で自分の手を見つけろと指示する。夢で自分の手をかざしてみて、しばらくほかのところを見て、形が変わってきたらまた手に視線を戻して、またよそに移し、そのようにして見られるだけのものを見る、という。
夢見で最も驚くのは、最初に自分の手を見つけた時だ。
私は暗い、一応場所の設定としては京都の五山の法の字の下の辺りの墓を歩いていて、オレンジの光がともっている。そして、立っている家の間のあたりを曲がったところで、突然立ち止まって自分の手を見た。夢の中では手を見たというだけなのだけれど、明らかに自分が別の体の中にいるというような、おかしな肉体感覚を経験する。そしてしばらくの間いろいろな場面で自分の手を見て、人が言うところの明晰夢を見た。
人々がいけないのは、明晰夢を見るときに、それを受け入れる概念的な支えを持っていないことだと思う。世界は不思議なところなのだ。
そんな感じだ。その後も時々夢見はある。だけどすごい成果があったなどということはない。何か外に見せられる一定の成果が出るまでは、ほうっておくほうがいいと思う。おそらくこの分野で生まれ持った才能を持った方などは何人もおいでになると思う。