そう、キリストは神だったという。人であり神であったというのが伝統的な教義だ。普通の考えでいうと、人間だろうと思う。
要するに、その「人間である」ということはどこから来ているのか。
神である人、というのは一見人間的動機がないかのように見える。
福音書の言い方でいうと肉の欲や人の欲から来ているということになる。(もっとも福音書は人間、つまり「人の子」という言葉をあるべき姿として使っている。私はここで言っている人間は欲であって人の子じゃないわけだが・・・)
クリシュナムルティは思考だと言った。こうしようと思う。その際に必ずこうしようという結果を想定し、それに向かって行動を起こす。思考はその連続なのだ。そのために、あらかじめこういう行動をしよう、こういう主義で動こうというのではなくて、いやな人が目の前に来た時に自分がどう反応するか見ろと言った。質問者が、そのように見れば、彼は私に意地悪くしないでしょうか、と聞くと、何の先入観もなく見ろ、そのように見た結果あなたがすることは、その場を立ち去ることかもしれない。しかし、それはたくまれて行われた行為ではないと言った。
通常の行動は、何らかの人間的動機に支えられている。
それは利益を得ようということかもしれない。可愛がって欲しいというようなことかもしれない。認められたいということかもしれない。
その根幹には、自分に対する憐みの感情がある。
問題はそうではない行動とは何か、だ。クリシュナムルティみたいに「見ろ」というのは、なるほどその通りかもしれないが、それが行動の根幹を指しているかどうかは疑問だ。
東洋の言い方でいうと「瓦を磨いて鏡となす」ということだ。
これは、馬祖道一禅師にお師匠さんの南泉との話である。
南泉:お前は最近何をしているか。
馬祖:ひたすら坐禅をしています。
南泉:坐禅をして何を目指しているのか。
馬祖:坐禅をして仏になることを目指しています。
そこで南泉は、瓦を持ってきて砥石で磨き始めた。
馬祖:お師匠さんは何をなさっているのですか。
南泉:瓦を磨いている。
馬祖:瓦を何をなさろうというのですか。
南泉:磨いて鏡とする。
馬祖:瓦を磨いてどうして鏡になりましょうや?
南泉:坐禅してどうして仏になれるのか?
道元禅師は、瓦を磨いても鏡にはならないのだから、坐禅しても仏になれないと南泉が言ったと考えがちだが、それは間違いだと指摘する。仏になるということは瓦を磨いて鏡となすことなのだという。
・・・・ほんの数秒の考えなのだけれど、文章にし始めると終わらない。続きはまた書きましょう。