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見て信じられるなら

キリスト教の偶像崇拝の問題、ずっと問題になる点だ。基本的に掲示の宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は偶像崇拝を禁じるという立場を取ってきた。一方キリスト教は偶像崇拝を禁じると言いながら、聖像を礼拝の対象として使用してきた。

歴史上7世紀、16世紀に「やっぱり聖像はダメだ」と言い出す人がいた。聖像破壊運動と、プロテスタントだ。それでも、教会はずっと聖像を守ってきた。その理屈は、神が目の前に見える人の形を取ったのにその形を認めないなら、キリスト教自体が成り立たなくなる、ということだ。

 

自分は、聖像というものを当たり前のものとして受け入れている。だが、本当は神はそうしたものではないことは知っている。わかっているんだ。

 

キリスト自身、たびたびこのことをテーマとして取り上げた。
もし私が信じられないなら、私の業を見て信じなさいといった。自分が信じられなくても、聖書が理解できなくても、モーゼが何を言ってるのかわからなくても、目の前で病人が癒えていて、それであんたが信じられるならそれでいいじゃないか、という立場を取った。自分にはそう聞こえる。

復活した後、トマスは主の現れた場所にいなかった。そこで、「私はその手に釘あとを見、私の指をその釘あとに差し入れ、また私の手をその脇に差し入れてみなければ決して信じない」と言った。そこでトマスに現れた主は「あなたの手をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に差し入れてみなさい。」と言われた。そして
「信じないものにならないで、信じるものになりなさい」
と言った。しかし、トマスが触ったり手を傷口に入れたりすることなく信じたのをご覧になると
「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信じるものはさいわいである。」
と仰った。

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キリストはどちらに重点を置いたのだろうか。つまり、「見ないで信じられるなら見ないで信じなさい」ということなのか「見てもいいんだ。ほかにわからなければ、見て信じられるものがあるならそういうものを見てもいいんだよ。だからとにかく信じなさい。」と言ったのか。

 

結局それは、「信じると言うこと、あちら側の注意力をどうやったら呼び起こすことができるのか」ということだと自分は理解する。何も手がかりなく突然「信じましょう」といっても、通常はそういうことは不可能なのだ。見てそれを呼び起こせるなら見て良い。そこに何らかの副作用があるにせよ、見るのはOK。神様のカンニングをしてもいいよ。そう言ってると自分は感じられる。

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