沈黙の知というのは命懸けの状況で初めて実現できる、という。本にはそう書いてある。カスタネダは空腹のジャガーの追跡から逃走するという特殊な状況で初めてそれを体験したという。彼の師であるドンファンは濁流の川を流されるという状況で初めてそれを体験した。
カスタネダの本の中では「沈黙の知」と言っているけれど、多くの精神的な実を求めている人が、その「命懸けの状況」なるものを求めていると思うのだ。千日回峰行みたいな荒行、失敗したら自害する、命懸けだよね。
じゃあ、逆にだよ。沈黙の知みたいなのを体験したいと思ったとする。命懸けの状況で得られる結果が得たい。どうしてもそうしたいとしますよ。そうすると、こっちで命懸けを用意しないといけない。
断崖絶壁から飛び降りるか?しかし、それだと死んじゃうよね。命懸け、というのだけれど死んじゃってはどうしようもない。ほな、ゴム紐をつけて飛び降りましょうか?しかし、助かるとわかっていては命懸けにならないよね。
たとえば目隠しをされて、「ここを歩いても絶対安全だから前を向いて歩いてね」と言われて歩いて無事に向こう側まで歩いた。ところが目隠しを取られてみたら、実はそこは高さ100mにある、手すりも何もない細い板の上だった。これ、落ちれば命が落ちる状況で本人は歩いているわけだが、本人自身は危ないとも何とも思っていなくて安心して歩いていたわけだ。多分こういう状況は命懸けとは言えない。
後ろで鉄砲を構えている人がいて、逃げなければならない。走っていると銃声が聞こえる。とにかく全力で走れ!ところが銃を構えている人は銃に弾が入っていないことを知っている。走っている人は必死かもしれないが、状況は全く安全である。これ、命懸けとは・・・ひょっとしたら言えるのかもしれないが、微妙なところだよね。
命懸けってのは、簡単には用意できない。予期していないということが重要な要件になってしまうから。
逆に今の状況でもほんのちょっと見方を変えれば実は命懸けの状況なのかもしれない。そのときに命がかかっていないとなぜわかる?
不屈の意志が命懸けの状況を呼ぶ。それと外的な要因が合わさって、初めて「命懸け」という状況が生じる。ずっと気をつけていて、目の前に転がり出る金色のネズミを捕まえるネコのようにしていなければならないってことなんだろうな。
こんにちは
今日、記事を読みファンになりました
大変参考になります(^_^)
私事で恐縮なのですが、『深夜、玄関の鍵を外し、ドアを開けておく』という方法で人口的に恐怖を作り上げてみたのですが これは結構有効だったようで 「あ〜めっちゃ私ビビってるな〜」と恐怖を眺めていると恐怖と自我が一緒に消滅するのをハッキリと自覚しました
だから何だと言う訳でもないのですが….
すみません汚してしまったようでしたら
どうぞ削除しておいてください
兎に角…崖から飛び降りるというようなものは
恐怖さえ感じられれば人口的に用意したものでも有効みたいですよ(当たり前か(^_^;))
明さん、こんにちわ。
どやろ・・・しかし、いろいろやってみるというのは必要なことかもしれません。