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地球外生命体

最近木星の惑星のエウロパで水の噴出が見つかって、生物がいるのではないかとか、4万光年という近い(?)星が地球の環境に似ているとかなんとかで、ほかの星に生命体がいるのではないかという機運が高まっている。

生きていると言うことは、死んだ石を集めたら突然歩き始めるというようなことではない、と自分はわかっている。世界は元々生きたものからできたのだ。神は数学である。真理なのだ。元々生きているのです。世界が死んだ石の集まりだ、と考えたいのは、単なる妄想に過ぎない。そして、学者の言う「生命の発見」というのは、まさに「歩く石を発見する」ことだと自分は理解している。何が生命なのか、彼らは定義を持っていない。彼らの試みが無駄かどうかはわからない。花を咲かせるときが来るかもしれないが、かならずそのときには彼らの期待を裏切るような形で事実が明らかになるはずである。

 

しかし、一方で西洋人は、実はかなり「存在そのものは生きている」という考えを持っているのではないか?

 

英語の新聞が、エウロパの生命体の話をする際には、extraterrestorial lifeと言っている。地の外の生命というのが直訳になるだろうから、地球外生命だ。

だけど、これはこなれた英語の単語のようには、自分には見えない。生命体は通常creatureと呼ばれるか、beingと呼ばれるのが、西洋の伝統としては普通の言い方に思える。しかし、そもそもcreatureという単語は「被造物」という意味で、色濃くキリスト教を反映している。

beingという言い方がどういう文面からそういう言い方をするのか、自分ははっきりとは知らない。
映画「かぐや姫の物語」で、月からのお迎えとして、映画ではまるっきり阿弥陀如来さんがやってくるシーンがあったが、その背後で流れる音楽は「天人の音楽」というタイトルだ。しかし、この天人の音楽の英語のタイトルはcerestial beingsです。cerestialは天上の、ということだからbeingはまさに生命体だ。

ぴちぴちピッチのギリシャ語でもそういう言い回しをしているところを見つけた。ぴちぴちピッチ ピュア 33話で、日本語では「ほかの生命体をミケルの体に取り込む」と行っているのだが、ギリシャ語ではάλλο όνという言い方をしている。英語でI amに相当する古典語の単語はείμίだが、この分詞は男性形がὦν、女性形がοὖσα、中性形がὄνだ。モーゼに神が自分を明かされるときの言い方は七十人訳ではἘγώ εἰμὶ ὀ ὦν.だ。これで「私は存在するところものである」みたいな意味になるわけである。個々の生命体と言うことで中性形のόνを使っているのだと思う。もっともこういう使い方をし始めたのが、どの国の何の表現なのか、自分は浅学で知らない。

いずれにしても、もし地球外生命体を「cosmic beings」みたいな言い回しをしてしまったら、たとえばそれはextraterrestial lifeよりこなれた言い方かもしれないが、そこにある種の思想が内在されてしまう。だけどその思想のほうが真実に近いのではないか?

 

それでも多分これは、「私は今ここにいる」という感覚から来ている言葉だと思う。生きていると言うことは、存在すると言うことであって、生きていると言うことなしで存在ということは言えないということは、漠然と西洋の言語は理解しているのだと思う。
本当は、多分言葉の上では、かなり人はわかっているのだと思う。人はもっともっと知っている。我々の歴史は様々なことをすでに明かしていると思う。

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