お彼岸は墓参りに行くわけだが、田舎に来てから、やたら親戚が多かったりして、多くの人がうちの墓にも来るし、またうちからも母方の実家とか父の兄弟の行った先の墓とか、いろいろ行き来がある。都会にいる間は、「行けないからゴメン」で済ませていたことは沢山ある。
以前は小さな山というか、所謂丘陵があって、その上には森があり、そうした丘陵の上とか中腹のあたりに、一人一人に対して墓石を用意した立派なお墓があちこちにあった。今はお参りに行くのも管理するのも大変ということで、お寺さんの用意した墓所などにまとめて「~家の墓」ということでまとめられるケースが多い。
そして、その行く先々のお寺さんは、宗派が違ったりする。浄土真宗さんもあるし、禅宗さんもある。それぞれに戒名の付け方とか、死者のお祭りの仕方が違う。
前にも記事にしたのだが、仏教の場合、死者だから特別のお祭りの仕方というものがあるわけではないらしい。葬儀の内容のほとんどは授戒の式、いわばキリスト教の洗礼に相当する儀式で占められている。それでも、内容はともあれ、日本の仏教は割と熱心に死者のお祭りをしている、と思う。日本の仏教では、死んで初めて仏弟子になるから、死者を祭るとは言わないで、仏弟子のご供養をすると考える。とにかく初七日・四十九日から始まって、初盆だ一周忌だ三回忌だと、何度も法事を行う。
自分は、カトリックやプロテスタントがどれぐらい熱心に死者のお祭りをするのか知らない。その点正教会は割と熱心に死者の祭りをする。教会がそうせよと言っているのかどうかはわからないが、伝統としてはそれがある。決まった祈祷の形式も存在していて、とにかくその形式で祈祷を挙げる。
天国は甘い、ということでギリシャなどでは麦を炊いたものの上に真っ白に砂糖をふったものが参列の人に供される。日本では米でもいいよ、ということになり、上に乗せる飾りも干しブドウにしましょう、あんこにしましょうというようなことになっている。天国が甘いとか、そんなのホンマですか?というようなケチもつければつけられるが、一朝一夕でできたものではなくて、これも伝統だ。
自分に先立つ人、親だったり先生だったりする人が死んだときに、何らかの形がいるとは思う。そういう社会的なつながりがなくなってくると、親の遺体を青いごみ袋か何かに包んで押し入れの中に入れて年金だけちゃっかりもらうなどという事件が起こる。
これがおかしい、ということを言いだすといくらでもケチをつけられる。プロテスタントの皆さんはマリア信仰がおかしいということで、多くの場合聖母をお祭りしない。浄土真宗の場合、南無阿弥陀仏と唱えされすれば死後すぐにも西方浄土に生まれ変わるので、他の宗派でするような多くの形式が行われない。
しかし、それらのものが行われないからと言って、何もなくてよいというわけにいかない。残った人の気持ちの区切りをつけるためか、あるいは現実に死者がそういうものが必要なのか、結局似たような何か他の儀式が用意されたりする。死者を祭る特別の食べ物みたいなものが廃止されたとしても、結局は何か他の食べ物を持ち寄って何かするような、そういうイベントが必要になったりする。どうせそうなるのなら、最初から捨てなかったほうがよかったのではないか?というようなことが往々にして起こる。
だから古くからのものは、安易に捨て去らないほうがいい。
日本仏教のお墓や仏壇って、儒教由来のものですよねぇ。
位牌はもともとドクロだったそうです。
お釈迦様が生きておられたときは仏壇もお墓もなかった。。。
先祖をお祀りしなくなってきた現代の方が、仏教本来の姿にもどりつつあるのかも。。。
なんて思ったりします。
灸太郎さん、こんにちわ。
自分はそのあたりはよくわかりません。
今の墓が中国の影響でできたものだということはわかりますし、お釈迦様が死者のことをあまり重視しなかったことも聞いています。その点はキリストも同じであると言えます。
しかし、お釈迦様がご存命の時には、いわば既存の宗教が葬式をすることができたのではないでしょうか。そういうことは社会的にバラモンさんがされることに決まっていたと理解しています。
今の仏教の状況が正しいかどうかわからないということは、以前からも疑問を投げかけてはいます。
だからといって日本から今の形式をなくしてしまうことは多分むずかしいのではないでしょうか。
いま、死者が迷っているから、観音様に助けてもらう、というようなことは現実に日本の多くの人がしていることです。そして、それは日本の多くの形式と結びついています。
これも批判はできると思う。各地にドデカい観音様の像が立っていて、それでいいの?とは思います。
ですが、もし今の法事はやめて、地蔵様観音様に頼むのはやめましょう、ということになったときに、イタコさんやユタみたいな人が必要になったり、何か別のものが必要となると思うのですが。
ネコです、
相変わらずの間抜けです。いろいろ取り込んでしまいまして。
今、日本のプロテスタント教会では、受難節の真っ只中です。
主の受難週、洗足の木曜日もまだあと1週間以上後です。
復活祭は4月20日です。
今年は遅いイースターです。
3月22日以降の最初の満月直後の日曜日がイースターになるようですが、
これは、正教会でも同じですか?
なぜ、満月と関係しているのでしょうか?
「プロテスタント教会の死者へのお祭り」ですか。
それは、結構、キチンと行われます。
「終油の秘蹟」に近いこともしています。
通夜は前夜式といっています。
告別式は、故人愛唱讃美歌など歌い、厳粛に行われ、
火葬場では、送別の讃美歌が歌われ、送り出します。
納骨は「聖徒の墓」という教会の墓地があり希望すればこの墓地に納骨されます。
私もお願いしようと思っています。
(自分の先祖伝来のお墓がある人は分骨する人もいます)
納骨式もします。
教会では、年2回、永眠者帰天者記念礼拝が行われ、
墓前礼拝も行われます。
遺族がいなくても教会がすべてこれらは行ってくれます。
プロテスタント教会で、マリア像を拝まないのは確かです。
あれは、偶像礼拝を禁じていることに由来しているのではないかと思います。
しかし、
形や形式も大切な事と私は、思います。
儀式も必要な事と思います。
プロテスタント教会の礼拝でも、
交読文などはしっかり読まれます。
聖餐式も厳粛に行われます。
形式を嫌う人も、世の中大勢いますが、
これらを形式だから必要ないと言って取り払ってしまうと後に何が残るでしょうか?
人間は「弱いもの」と思います。
精神力だけで、保持していくことは難しいと思います。
仰られるように、
安易に形式や儀式を捨て去らない方がいいと思います。
ネコ様、
復活祭の日付の決め方は、基本的には春分の次の満月の次の日曜日なのですが、実際には多少違うことのほうが多いです。
詳しいことはわからないのですが、元々この日の決め方はユダヤ教の過ぎ越しの祭りから来ており、他の宗教の祭日との関係と私は聞きました。
Wikipediaではカトリックがグレゴリウス暦を導入してから西と東が変わったと書いてあるようです。
プロテスタントさんの死者への祭りについて、詳しく教えていただいてありがとうございました。
現実問題として、日本人はそれなりに死者を大事に扱っているので、プロテスタントであれカトリックであれ、ある程度そういう何かを提供しないと布教できなかったのではないかと思いました。実際に霊現象みたいなものを私は否定しません。説明は色々にできるかもしれませんが、現象自体は生きているものにそれなりの意味を持って現れます。日本の在来宗教が出来ていることが、外来の宗教にできないということになると、なかなか受け入れられないのではないかと思ったのです。
マリア信仰は私の理解では当初のキリスト教からあったものだと思うので、私自身は肯定的にとらえています。
しかし、そのこととは別に、わざわざ取り上げたのは、日本に持ってきたときにいわば観音信仰に代わるものだと思ったからです。
神学者さんにはいろいろお叱りを受けるかもしれないし、仏教の皆さんにも不謹慎だと思われるかもしれません。
観音様というのは、少し奇妙な存在だと思っています。経典に出てきて、舎利弗に教えているけど、じゃ、お釈迦様の時代にいたのかというと、そうではありません。
にもかかわらず、日本の仏教の中ではとても大きな存在です。観音霊場を巡礼することによって、霊的な問題が解決したというような話があるのです。
プロテスタントを除く地域、カトリック・正教会のみならず、タタール人、マロン派、エチオピア正教会など、多くの地域で聖母は、人々がいわば高尚な神様の問題ではなくて自分の悩みを解決するためのよすがになっている部分があると私は理解しています。
形式に対する賛否というのは当の正教会内にもあります。日本の教会はロシアから入り、プロテスタントさんやカトリックさんの教育の影響を少なからず受けた人材によって保たれていると思います。
自分はアトスのイコンの前に信者さんが供えた願掛けの供え物のようなものを見て、日本の神父さんがこれは邪教ではないか偶像崇拝ではないかと、厳しく批判したのを見たことがあります。
自分はギリシャにいたからギリシャ人の誇りみたいなものを知っています。日本人が何がわかる?ギリシャは2000年前からキリスト教国なのだ。言わず語らずの誇りを彼らは持っていて、私もその部分は本当に入りづらいものがありました。それを日本の神父が批判するのはチャンチャラおかしいようにも思うのですが、そういうことはあるのです。
先程のコメント、あわてていて匿名になってしまいました。
ネコです。本文には入っていますが。
失礼いたしました。