他人で豊かな人、才能のある人、豊かな能力を持つ人、多くの人から認められた人、恵まれた境遇の人、こういう人に対してねたみや羨望を感じる。そのようになっていない自分に対して、あせりを感じる。到達すべき人に対して尊敬の念を抱く。
変な例を持ち出して悪いが、たとえば誰もが単純に浅田真央さんを賛美し尊敬しているだろうか?浅田さんはお母さんが必死で面倒を見てくれたから現在の境遇がある。お姉さんがいたからスケートの芽が開花した。私のお母さんは何をしてくれただろう?私にはお姉さんがいなかった!私は長女で跡取りだ云々。いろいろありえる。
こういう心の動きは、ある意味仕方がない面もある。それによって、努力を促されるという側面もある。一概に無用なものだ、ということはできない。
一方で、人は平等だ、という考え方がある。人に限らず、生命は平等だという人もいる。何一つ平等ではないような気もする。子供のうちに命を落とす人もいる。100歳でも健康な人もいる。鯖一匹といわし一匹ではだいぶ値段も違う。
神・命・運命という考えは、こういうことに対して、ひとつの解決・救いになる、と思う。
これは命なのだ。あなたはここにこうして生きている。それが命だということ。命はあなたの持ち物ではない。命は個ではないということ。ここであなたはある星の元にこういう形を取った、という実感を持つこと。
神ということは少しわかると、どのような天才や聖人であったとしても、結局は自分が描いた偶像に過ぎないとわかる。
多分それも少しずつわかるのだと思う。
どのような聖人であっても、天才といわれる人であっても、多分月が土星にスクエアになる年はあった。
自分の人生がここまで多くの経験・・・経験という言葉は多分正しくなくて、記憶の主体となっているものは、キリスト教の言葉でいう「言葉」なのだと思うが・・・経験から成り立っているとわかってくると、最終的にある結果を残したひとりの人生も、ある瞬間には非常に恥ずかしい笑うべきものであったかもしれないと思う。その人は、常人がなしえない、ある達成をした。そのことは本当だ。だが、普通の人だった。
多分、それが真実なのだろう。