まず自分のことをお話ししましょう。
最初は、自分は何も知らずに教会へ行ったのです。それで司祭さんからご聖水をいただいたりして、「あの~、長い間水を置いておいて、腐らないんですか」と尋ねると、司祭さんは笑って「あのね。ご聖水は腐らないんだよ」と教えてくださった。
そして、そのうち、教会のいろいろなものが腐らないということを教えてもらった。ご聖体も、大斎中は先に聖変化したものを使うことがあるが、それも腐らない。ご聖体とならなかった、死者の記憶のために使われたパンも腐らない。そして、聖堂の下には必ず聖人の体があって、聖人の体も腐らない。
聖人の体の上に宝座があって、そこでパンと葡萄酒がご聖体に変化する。変化の際には、聖人の体を縫い込んだ布(大気と呼ばれる)も使われる。そしてそのご聖体を信者はいただく。
アテネ郊外に今は使われていないケサリアーニ修道院という遺跡がある。そこにいったときに、壁に不思議なイコンが描かれていた。
ブドウの枝のような、そういうデザインなのだけど、真ん中にキリストの顔が描かれていて、そこからツルが伸びていて、その枝には色々な諸聖人が描かれている。ツルはキリストから始まって、どんどん枝分かれして、多くの聖人につながっている。
「私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝である」というのを、絵にしたものなのだろう。
自分の中では、この聖人の腐らない体やご聖体については、ある一種の考えが自然に出来上がっていった。人間は修行によって、神を信じる信仰によって、何か一種の結晶のようなものを自分の有機体の上に作ることができる。何かが結晶化するのだ。それは福音書が「実」と呼んでいるものである。
その結晶のある有機物は、死後も腐敗せず、霊的な結びつきを保つ。そしてそれをご聖体と言って我々は食べている。その聖堂の下の聖人もご聖体をいただいた。どこかの聖堂で。そのまた聖堂の聖人もご聖体をいただいた。そして、それをどんどん遡ると・・・当然最後の晩餐に行きつくはずだ。
だから、教会でご聖体をいただくということは、本当にキリストから連綿と霊的なつながりを保っているものなのだ、ということが、言わず語らずの内に納得された。自分の中では、いろいろ見聞きしたことから当然に導かれる結果に思えたのだ。
「私はまことのぶどうの木」というのも、別に譬え話で仰ったわけではない。本当にそのシステムをきっちり作ったうえで、キリストは「おめえら、大丈夫だ。頼ってくる奴は面倒見てやっからよ。」と仰ってくださっている、と・・・単純かもしれないが・・・思えたのです。
ところが、聖堂の下に不朽体があって当然に霊的に主とつながっている、みたいなことを当時の学生の仲間に話すと、彼らは一種怪訝な顔をした。当時自分はキリスト教の教室にいて、先生は福音派、何人かはプロテスタントさんだったがカトリックの人もお二人いらっしゃった。そのうちの誰かが、「そういうことを言い始めると、聖遺物信仰について考えないといけないし」みたいなことを仰った。その反応が当時の自分には理解できなかった。自分にとってはごく普通のことをしゃべっているという感覚しかなかったのだ。(続く)