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聖遺物信仰 (2)

自分にとっては、いわばギリシャ人のキリスト教が、キリスト教だった。若い時に求めて行ったということは小さくないことだった。

しかし、ギリシャ人にとってのキリスト教は、他のヨーロッパの人々のキリスト教とは違う意味を持っている。まずイスラムに責められ、十字軍に攻め込まれ・・・十字軍はキリスト教の軍隊なのだが、ギリシャは同じキリスト教だが無節操なカトリックに敵対視された・・・、東ローマ帝国が滅亡したのちイスラム勢力・オスマントルコに長く服従の時代が続いた。

オスマン帝国は、確かに人頭税を取ることによってキリスト教の信仰を認めはしたが、おおっぴらに布教活動ができるような状況ではなかった。そうした状況で教会は長く人々の心の支えであり続けた。単に抽象的に心の支えというだけではなく、ギリシャ人、キリスト教徒としての文化やアイデンティティを保つ社会的な中心でもあり続けたのだ。ギリシャ独立運動の中では正教は彼らの精神的な支柱となった。

その中で、教会の様々な調度品とでも言えるものは、カトリックのそれとは違う重要性を持つものとなった。ひとたび争いが起これば異教徒にとって聖遺物などというものは格好の攻撃の対象となるべきものだった。また東側にたくさんある聖遺物もカトリック圏ではめずらしいものだった。そこで十字軍も多くの聖遺物を金で買いあさったり、略奪したりした。
ギリシャ人・正教徒については、イスラムの支配が及ぶようになってからは特に、イコンや聖遺物の教義上の是非を言い争っている暇は多分なかった。聖遺物はおそらく東側のキリスト教徒にとって、別段遠くにあるものではなかった。どの聖堂にも存在していたのだから。それはどこか遠くの昔の人のものというのではなく、自分たちの信仰の中心に据えるべき、とても身近な存在であったのだろう。今修道している名もない修道士が、ひょっとして聖遺物になっちゃうかもしれない。あなたの中学校の同級生が聖遺物になったら、あなたはその価値を否定しますか?その一方で破壊や略奪から必死で守るべきものだったのだ。
アトスの修道院は、ハルキディキ半島に並んでいて、コンスタンチノープルのボスポラス海峡を越えれば異教徒の勢力からすれば目と鼻の先にある宝物の倉庫みたいな場所だ。そこで、彼らの修道院は聖堂を囲んで丸く城壁が囲んでおり、その城壁の内側が修道士の住居となっている。ひとたび戦闘となれば直ちに門を閉め、おそらく決死で修道士たちは中の聖なるものを守る体制に入ったのだろう。

東側から西に向かった聖遺物の一つに聖マルコの遺体がある。福音記者の聖マルコは、エジプト・アレキサンドリア方面に布教し、北アフリカに多大な影響を与えた。その遺体は長くアレキサンドリアにあった。しかし、十字軍が組織されたころ、地中海で多大な経済的勢力を誇ったベネチアの人々は、自分の町にふさわしい不朽体を欲した。実体は不勉強でよく知らないが、彼らの莫大な経済力にものを言わせて、彼らは記念すべき聖遺物・・・聖マルコの遺体をアレキサンドリアから持ち帰った。そして、今聖マルコはベネチアの守護聖人になり、サンマルコ大聖堂に眠っている。
ひとたび聖遺物が、それも有名な聖遺物がカトリック圏に持ち込まれると、これはおおごとなのだ。彼らにとっては聖遺物は身近なものではない。なんでもケルンの大聖堂も、すったもんだの末に東方三博士の聖遺物が持ち込まれることになり、それを納めるにふさわしい大聖堂を建てなければならないということで建設されたのだとか。
つまり、西側の人々にとって、聖遺物というのは何か雲の上の存在、手に届かない宝物、特別の人々が特別に持っている何かとても高価で縁遠いものだったのだろう。そして、その聖遺物は特別の恩恵を与えてくれるもの、ということでおそらく教会は大いに宣伝したり面目を保つことになったのだろう。ところが16世紀になって、そういう風潮を快く思わない人々が出てきた。(続く)

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