遺伝子について、コメントいただいた方に対してもそうだし、自分で書きながら、どうも言い足りないことがあるような気がしていました。
現代科学には、占星術のような思想はありません。
それは、他のものから切り離されて存在しているものはないということ。
神、といってもいい。神という思想。それでもいい。自分はそれを矛盾なく受け取ることができる。
しかし、神だけまっすぐ持ってくると、この多様な世界になぜ唯一の源というのが、すんなり来ない人もいるでしょう。結局は同じことだったとしても、山の頂上だけ見せるんじゃなくて、今から上るときに手や足をかけられる小さなくぼみが欲しい。
占星術では獅子宮・第5ハウスという象徴がある。感情、その人自身、遊び、子ども、暖かいところなどを表す。しかし、獅子宮・第5ハウスそのものというのは、存在しません。蟹の隣が獅子、第4ハウスの隣が第5ハウス、水瓶の反対側が獅子、火のフィックスドサインが獅子なのであって、第5ハウスが乙女のホロスコープも存在するのです。
そしてそれは真実がです。ちゃんと意味があるのです。実際に占星術が当たる、ということは、バラバラで存在しているものはないということ。
私たちが通常「科学だ」と呼んでいるものは、バラバラの個物を前提して、それが継続するか、どれとどうくっつくかという観点から物事を考えます。それによってわかることもある。便利に思えるときもある。確かに、生物において遺伝子は大きな役割を果たしているでしょう。それに別にケチをつけても仕方がない。
しかしだからと言って「生命は機械的なものだ」などということはできないのです。生命はそういうものではありません。
赤と黄色のレゴブロック(・・・昔はダイヤブロックだったけど・・・)を組み合わせて赤・黄・黄・赤の組み合わせを作りました、そうしたら突然、そのレゴブロックの組み合わせが生命をもって動き出した、などということは決してない。遺伝子がいくら正確なものであったとしても、だから機械性が命だ、などということには決してならない。
賽の河原でいくら石を積んだところで、それが芋虫になって歩き出したり、鳥になって飛んで行ったりはしない。
それをざっとでも知るためには、ある程度占星術のようなものをする必要がある。別に最初から素晴らしく当てることが出来なくてもよい。あるいは、占星術をやっても、何かとんでもない横道にそれてしまって正しい結論に至らないかもしれない。それでも、学ばなければならない。そういう考え方を身につけなければならない。
目の前の一服の風景は一つのホロスコープである。一人の人は一つのホロスコープである。何かの独立した一つの単位はそれ自体一つの宇宙で一つのホロスコープであり、内部に調和を持ち外部と接点を持ち、それなりの法則で生き続けているということ。その感触を味わってほしい。
今の科学では「HOW TO」の説明・証明はできても
「WHY」についての説明・証明はできていないような気がします。
またはする必要がないと見なして排除しているのでしょうか。
そのWHYの答えを
人は求めずにはいられないんだと思います。
言葉足らずで上手く言えませんが。。
夏川さん、こんにちわ。
多分夏川さんが考えておられるいくつかのことに私は回答することができると思います。
できるだけ自分の考えを具体化するような記事を書いていきたいと思います。