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自然の中の人間

今年は春先少し寒かったのだが、なんだかんだで稲は育っている。ここのところ、1日1時間ぐらいは畔の草刈りをしている。

雑草が生えて、根が張ると、根を餌にミミズが繁殖する。そのミミズを求めてモグラが穴をあける。そうすると畔が壊れて水が漏ったり、今度はその穴を埋めようとしてせっかく整えた畔がへこんでしまったりする。だから表面上の問題だけではなく、草を刈って適宜別のところに集めるとか、燃やすとか、何らかの処理をしないといけない。

ちょっと違うけど、山に生える竹というのも、似たようなところがあります。竹はずっと地中で横に根を広げて、どんどん成長して竹林を作る。根も竹も内部は空洞だ。そうすると竹林ができたところは地面がボロボロになって緩く崩れやすくなってしまう。タケノコ取りには、おいしく食べるという側面もあるにはあるが、竹林を大きくしないようにするという山の管理の側面もある。

 

それやこれやを考えていて、ふと思った。

今の世の中、人間が自然に手を加えることは、通常悪だと思われている。人間のすることは自然とは別にあって、自然対人間の戦いみたいに考えられている。

たとえば、あれこれの動物が滅ぶのは人間の仕業である。自然破壊によって滅びそうな希少生物に適した環境を回復してやって、それが存続できるようにしてやらないといけない。

こうした考えの行き着く先は、要するに「人間は邪魔だ。あってはいけない余分な何かだ。」ということですかね。

たとえば草焼きをします。この辺の地方では、外で刈った草や木を焚く行為を「くよし」というのだけれど、くよしをすると二酸化炭素が発生して温暖化の原因になる。人間が邪魔だ。その辺は草ぼうぼうにしておいて、イノシシやサルがでるままにしておけばいい・・・そうなの?

 

人間は、被造物で、地球上の自然の生物である。神は法則に基づいて各生物を発展させられた。人間だけが思考力を持っている。思考力を持つに至ったということも自然なことであるはずだ。人間だけが特別に自然と戦うものとしてほかの天体からやってきたエイリアンというわけではない。その思考力には意味があるはずだ。

ある生物は、ある環境で自由に発展した結果、好ましくない性質を持ったかもしれない。竹は別にそれ自体が悪いものだということはないが、広がりすぎると山が崩れる。自然環境が変わる。そこで竹は適宜切って、二酸化炭素が出ようが燃やしてやらないといけない。そして地球上でそういう役割を負っている人間の思考力というのは、ある意味自然な、ある意味神様が用意されたものだ・・・それでいいんじゃないかな。人間の思考力は自然なもの、そして適宜地球環境を整備するために使われるべきもの。そうじゃないか?

 

では、そうやって実際にほろんだものはどうなの?ニホンオオカミ。滅んでよかったのか。アメリカリョコウバト。ドードー。モア。

それでも、彼らは可哀そうな生命体だったかもしれないが、だからの「自然保護」というのは正しい物差しではないのではないか。仮に人間がいなかったとしても、いくつかの生命体の種は滅んだに違いない。

人間が田んぼを作って山を整備して、暮らしやすい土地を作って、川の治水を行って、それが実は「自然」な行いなのではないか。

 

ま、作業中の戯言です。すみません。

自然の中の人間」への2件のフィードバック

  1. あめ

    話の趣旨はそれますが、そもそも二酸化炭素の排出量と地球温暖化の因果関係自体か゜怪しいようです。
    私、藁焼きの匂いがものすごく好きで・・
    まったく嗅げない昨今が哀しくて仕方ありません。

    返信
    1. simpledirect 投稿作成者

      あめさん、こんにちわ。

      その話は聞いたことがあります。一応そうだとしても、ということです。
      野焼きはなかなか難しい。ある程度雨が降るというような時でないと燃え広がる可能性がありますし、かといって乾燥してないと燃えないですしね。

      返信

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