なかなか人は来ないんだけど、一応ギリシャ語講座を続けています。
先日は、一人だけ、プロジェクトの管理人さんだけど、その方を相手にアルファベットの勉強をして、それからセーラームーンの話をしました。
変身するときのセリフがありますよ。
Δύναμη του φεγγαριού μεταμόρφωσέ με! (ジナミ・トゥ・フェンガリウ・メタモルフォセ・メ)
Δύναμης 力、権能、いわゆるダイナミックの語源の言葉ですよね。
フェンガリは「月」、メタモルフォセは「変身させなさい」、メは「私を」
なので、みんな合わすと「月の力よ、私を変身させなさい」です。
ここの部分の日本語版は「Moon prism power, make up」で全部英語になっています。ギリシャ語版は例によって必ず自国語で叫びます。
メタモルフォセ、というのも、ピンとくる方もいるかもしれない。メタモルフォーゼはそのままドイツ語に入って、今は何かファッション用語になっているのですかね。
それから、キリストがタボル山で白く変わって、モーゼとエリアと話し合っていたというのを
「主の変容」
というわけですが、これもメタモルフォシス、系列の単語です。
つまりですよ、子供がこのセーラームーンを見て楽しんでいる間に、その単語の様々な文化的背景をギリシャ人はすでに感じ取ることができるということ。一方で日本人は「メークアップ」から入るわけですよね。化粧か?メークは作るか。本質は何か。
たとえば、倫理の教科書なんかで「エロース」と「アガペー」というのが出てくる。アガペーは神の無償の愛。エロースは性愛のことで、プラトンがイデアを追い求めるときに使った言葉云々みたいなことを習う。日本語の質問において「エロースとアガペーはどう違いますか。アガペーとはなんですか」みたいに言われると、何かよその国の特別の哲学的な事柄を言っているように聞こえる。
しかし、アガペー、現代語の発音でアガーピというのは様々な形をとりながらギリシャ語の中にはたくさん出てくる。それは要するに「愛」である。
名詞はアガーピだ。
しかし、形容詞でアガピトスとかアガピメノスというのは手紙の初めなどで使われる「親愛なる~様」みたいな言い方になる。
アガポーという動詞がある。サガポー・ケ・マガパス。僕は君を愛しているし君は僕を愛している。
日常的に様々な場面でそれは出てくる。日本では大学を出た超インテリさんが「これはアガペーでございます。どうです、偉いでしょう。エッヘン」みたいに思ってるかもしれないけど、そのことは、別にその辺のギリシャ人の掃除のおばさんが説教できるかもしれない。
もちろん教会でもアガーピを聞くことがある。神父さんが日曜日の説教で必死にその大事さを説いている。教会の祈祷はギリシャ語で行われている。多少古い文法だったとしても、彼らはその言葉を自分たちの言葉として直接的に理解する。
一方で、日本語のお経は何一つわからない。よその国のわからない言葉がいいのだ、どこか遠くの何か知らない偉い人が正しいのだ。お前みたいな下衆は黙っていろ、という圧力がある。
そうしたものが、ある時私の中で形をとった。今までも言ってきたことではあるが、日本語は自分の感情や日常体験の語彙が結びつかない、いくら勉強しても「インテリのお遊び」みたいな知識になってしまうのだ。そして、それが形をとる前に次々と外部の言語に飛びついてしまう。
これは、恐ろしいことだ。人間として大事なことが、言語とともに進んでいかないからです。