仏教徒が悟りと呼んだり、ヨーガがサマーディやディヤーナと呼ぶような、究極の心の状態とでもいうようなもの。
多くの人が、そうだろうと思い、それを目指して修行する。
ある程度までは、この「悟り」の状態というものは、いわば理知的な理解が可能である。
曰く、
心の沈黙の状態である。
欲望のない状態である。
認識をしない。
認識とか行為とか欲望の主体としての自己というものが存在しない。無我である。
現実には多くの人が、もう少し良くこの状態のことを理解し、自分自身に対して説明することができる。そうした基本的な概念の理解のもとに人は修行や何らかの取り組みを行う。
そして、最終的に悟りに至るまでは、あるいは悟りに至ってもなお、人は思い続ける:
「『悟り』は心の問題なのだ。」
私の内部で、心で、それは達成される。思考が沈黙する。ある境地に達する。
しかし、外的な世界はそのまま存在する。
なぜ変わると言える?
家の前には交差点があり、角を曲がれば郵便局がある。
俺は家の座敷で座禅していて、悟っているが、それは俺の問題だ。
郵便局に変わりはないはずだ。
しかし、もし悟ったときに自分を偽らなければ、実はそうではないということに彼は気が付いているはずだ。
「私」が「山」を「見て」いる状態から「見ない」から「私は存在しない」という悟りの在り方になったとしたら、「山」のほうだけそのまま存在し続けるはずがないのだ。
なんで!?世界はちゃんとあるじゃないか!
誰でもそう思いたい。
だがそうではないのだ。
もし究極の心の状態というものがあり得るとしたなら、それを得たとたんに世界のほうも崩壊する。心を構成する力・・・聖霊・・・に触れると、世界を構成する何かをも変える力を得ることになる。