意図(intent)もカルロス・カスタネダの著作に出てくる言葉だ。夢見を意図する、という。意図については彼ら独自の定義の仕方がある。そのためにはイーグルの放射物(Eagle’s emanation)とか集合点(assembly point)と言った言葉を説明しなければならない。が、それは大変だし、私自身が確認できないこともあるし、ある意味書物を見れば書いてあることでもあるので、不完全ながら意図について言いたいことだけ言っていく。
意図というのは意識の状態を決定する集合点を動かす力だと彼らはいう。集合点を固定する側面が意志であり、集合点を動かす側面が意図なのだという。
人は明晰夢という言い方をするが、その言い方が私はあまり好きではない。カスタネダの夢見という概念なら、その目指すものがハッキリしている。夢を見ている間、集合点は穏やかに動いている。夢見の発達は間接的なもので、そこで本当に発達しているのは、意図なのだという。
説明は難しいのだけれど、彼らの言っていることの中で、これが実際に簡単で、最初に重要なことなのだと思っている。
夢の中で手を見つけるのが、意図なのだ。夢の中で飛ぶことができるとすれば、意図なのだ。
旧大陸の思想で、謎の力を発揮する集中力のようなものは、いろいろに言われている。
聖書は信じると言っている。信じて山が海に入るのと、イエスが神の子と信じるのと同じだろうか。明らかに力の側面の信というものがあるように思える。
東洋思想は念という言葉がある。念じる、という。思う、というのとどこが違うのか。強く願うという側面があるわけだが、現実に念で持って、物質が動いたり、写真が映ったりというような何かがあるべきと考えられていると思う。その一方でそれが本当は何をしているのか、説明を目にすることがない。
普通は、その何かを言葉にすることが出来ず、普通に考えることとその力を発するような何かを区別することができない。その結果、「信じて一体何が違うんだ?」という感想しか持つことができない。
考えることは実現するというじゃないですか。考えただけで実現する?そんなことがあるだろうかと考える人と、そうなのかもしれないと考える人がいる。何が違うのか。普通はそれを区別できないのだ。
それは、自転車に乗ることができない人がある日突然乗れるようになるように、人の中で目覚めるある能力なのだ。