「忙しく無意識に走り回る思考を止めて、沈黙を得るべきだ」というとき、それはその通りなのだけれど、思考を止めるということが何か静的な事柄なのだ、とどうしても思ってしまう。
おそらく、悟りを開いた誰しもが感じることだと思うが、本当は違うのだ。ありのままの世界は生きていて、その歩みは止まることがない。にもかかわらず、そうした何かがあった後でもずっと我々は「思考を止める」という表現を受け継ぎ、それが静的なものだという印象を持ち続ける。
結局、それがそう表現されている仕方に我々は打ち勝つことができないのです。
自分にはその説明はある意味完璧に思えた。つまり、欲望の対象となる実体は、欲望が働く時間とともにあるのだ。りんごがほしいという行為が続き、その欲望が続く間、その対象であるりんごは存在し続けなければならないし、それを欲しがる主体である私も存在し続けなければならない。思考が沈黙すれば、その延々と続く動きがストップし、りんごが・・・つまり世界が・・・崩れ落ち、自己も崩壊する。
お釈迦様はこの対象を名色、つまり名称と物質的形態と呼んでいる。ある意味、これはこれで完璧なんですよ。
しかし、この説明は迷いの側から見た景色であって、「沈黙」の本質の本質を言っているかどうかはこれは別なのです。その迷いはどこからやってくるのか。なぜ一体人は善悪を知る木の実を食べてしまうのか。
その迷い、世界、善悪を判断する木の実も、ある一定の法則のもとで、我々の中形作られる。それは、悟りの世界で見る神の業である。神がそれをしている、ないしは命令しているのだ。
そして、沈黙を得る、ということで我々が求めているものは、その命令が子のものとなるということ、その上から来るものを受け入れることによって、もともと神の命令であるものが私のものになるということだ。それが意図だ。それはもともとは迷いを構成している力と同じ力が、その方向を向けかえるというような、たったそれだけのことなのだと思う。
沈黙を得る、何も欲しないということと、別の世界に入る、夢で止まる、意図するというようなことは一見矛盾しているように見える。その矛盾を受け入れなければならない。だが、それは実はできるんだ。そのできるという、いわば肉体的感覚みたいなのをつてにしてリアルなものにすることができる。今までの人生とは違う人生を紡ぎださないといけないのだ。
多分それが福音書がἐξουσίαν τέκνα θεοῦ γενέσθαιと言っていることなんだろうと思う。ἐξουσίανだよ?驚くじゃないですか。神は権威を与えた、というのだから。ということは、できるってことなんだよ。
終始、ヨハネは向こう側から見た景色を記述した。あれやこれやの山登りの過程ではなく、上った人が見える景色を正確に描写した。