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こころ

運転しているとき、どうせ受動的に音楽を聴くなら、役に立つものを聞いたほうがいいとビザンチンの音楽をかける。すると、マカリズミとかは聞いてわかる。マカリズミというのは、マカリイ・イ・プトヒー・ト・プネブマティ(心の貧しきものは幸いなり)から始まる山上の垂訓の一節だ。

 

聞くのは受動的にカーステレオがならすのを聞くのだから、あっちを聞き取ったりこっちを聞き取ったりだ。と、「オティ・アフティ・トン・セオン・オプソンデ(なぜなら彼らは神を見るからだ)」というところを聞いて・・・・えっと、誰が神を見ることができるのだったっけと思い返した。それでも、運転を続けていれば勝手にステレオが言ってくれるわけだから、次にめぐってくるときには聞き取れるわけだ。そしてその人は、カサリ・ティ・カルディアの人、つまり、こころにおいて清き人だったわけだ。

 

頭の中の考えでは、その「神を見る」つまり、神という真実に触れることができる人というのは、何かとても具体的なチャンスというか、すごくそうあってほしいことだと思ったのだ。一体誰がそういうことができるのだろう。

これ、キリストが言ったわけでしょ。当時の聞いている人がわかる、という意味合いもあるけれど、単に詩的な事柄・道徳的な事柄として、こころがきれいな人はいいことがあるよ、みたいなことで終わらしていいの?本当に一定の条件がそろった人は神を知ることができるのですよ、と約束しているはずじゃないか?

するとそれはカルディアにおいて、カサリな人だった。

で、このカルディアというのはまさに心臓という意味です。英語でいうところのハートですね。お医者さんとか、医学用語をちょっとご存じの方は、Cardiaなんとかといえば心臓の疾患とか心臓の治療にかかわることだとすぐに思い至られると思います。だから、ここでは多分感情的なよどみのないこと、良心に従っていることというようなことだと思う。神を見るのはハートで見なさいよと、これはキリストが言ったわけだ。

 

だけど、最初も「こころの貧しき人は幸いなり」じゃないか。あれはどうなの?

あれは、プネブマ、つまり英語ではspirit、霊とか精神とか訳される言葉だ。精神における貧者、霊における貧者は幸いなり、なのです。ちょっとまってよ・・・日本語では大体おごり高ぶらない人みたいな意味に言われてますよね。精神においてリッチなのはアカンわけですな。ここで精神というのはハートじゃないわけだ。主義主張・信念みたいなものも含めて、もう少し思考的な、自分できちんと選ぶ的な、何かなんでしょうかね。

 

そうすると、日本語の「こころ」というのは、ムズカシイ言葉だね。本当はもっと具体的な経験をそれぞれ指していたと思うんだ。意味が通らないことを覚悟で、原文に一対一で対応する単語を当てたほうがいいんじゃないか。

こころ」への2件のフィードバック

  1. ネコ

    こんにちは、いつも間の抜けた時にコメント失礼します。
    そうですか、「山上の垂訓」ですか。
    ギリシャ語ではどうなのか、英語ではどうか、
    残念ながら私は、ギリシャ語を習う門前で志をギブアップし腰砕け(笑)
    ギリシャ語を習得することができませんでした。
    (余談ですが、私の人生で心残りなことは、この勉学を途中で放り投げたことが最も大きな心残りです)
    ですのでギリシャ語ほとんど解りません。
    山上の垂訓は、キリスト教における大切な教義ですね。
    正教会では一番大切な祈祷文でしょうか?
    真福九端、天には汝の報い多ければなり、、。
    マカリズミというのはこれですか?

    「神を見る」「真実にふれる」
    一体誰がそういうことができるのか?
    聖書にこのように書かれている、この箇所と私は思います。

    ファリサイ人と徴税人の話、
    ルカによる福音書18・9-14
    「徴税人は遠くに立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
    『神様、罪人の私を憐れんで下さい』
    言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、
    あのファリサイ派の人ではない、、。
    だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

    とありますが、
    しかししかし、ここでまた、
    「へりくだっている私は、大丈夫だ、、。」とか
    ああ、人はどこまで罪深いのでありましょうか!?
    永遠の命 命 アイオニオスゾエ、???
    失礼しました。

    返信
    1. simpledirect 投稿作成者

      ネコ様、

      詳しいお返事は長くなると思うので、もし間に合わなければ記事にしたいと思います。

      仰る通り、日本語の真福九端がギリシャではマカリズミと呼ばれています。
      正教会における真福九端は、日曜の聖体礼儀、カトリックでいうミサで、大連祷・アンティフォン・連祷・アンティフォン・連祷の次のアンティフォンで歌われます。
      もっとも、ここの祈祷をその日のトロパリ(短いその日の特別の祈祷文)で代替する国もあります。ギリシャの場合も多くそうです。
      日本の教会では素直に山上の垂訓の一節のみを聖歌にして歌っていますが、ギリシャ語のそれを聞いていますと、それらに付け加えてそれぞれに祈祷文を付け加えて歌われています。

      返信

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