ネット上での議論は殺伐としたものになりがちだ。文字にするということは筋道を立てて論理的にきちんとした話をするのには適している部分もあるのだが、相手の顔が見えないということもありどうしてもきつい言い方になってしまう。
とりわけ、ある世界で権威や定説がハッキリしているもの、あるいはハッキリしていると考えられるものでは、議論をしていても疲れてくるし、お互いに罵詈雑言を浴びせかけるというようなことが起こりやすい。
こうしたことはどこでも起こることだが、たとえば宗教関係の掲示板のようなものは、ずっと双方が譲らずに議論が続いてしまう。
ところが、宗教とは深い関係にあるものの、不思議の話、お化けとかあの世とかそういう話になると、罵詈雑言を浴びせかけるという割合は格段に少なくなる。そういう話の場合、誰でも体験があるというわけでもないし、だからといって真面目な体験に対して正面切って「そんなのは嘘っぱちだ」ということも言いにくくもあり、さらにそれが嘘だと断定する根拠も難しいからだ。
相手と意見が異なったり、対立したりということはおこりがちなことで、これを避けることはできない。
しかし、いわゆる「やさしさ」がとても大事だ。丁寧で、相手を頭ごなしに否定しない。やさしくするということがとても大事だと思う。
こんにちは、ネコです。
ネット上の議論は殺伐としたものになりがちだ。
相手の顔が見えないということもありどうしてもきつい言い方になる、、。
そうかもしれませんね、
では、顔を見ながら話すと、うまくいくのだろうか?
顔を見ないから言いたいことをキチンと言えるのかもしれない、
筋道をたて論理的にきちんと話をするのにてきしている、、。
本当にそう思います。
顔を見ながら話す、相手の顔が見えないということもあり、、ということに対しての私の思いを一つ、、。
私は、ここ近年、眼が悪くなり、相手の方と向かい合って話しても、顔が見えにくい。
なんだか不安になる。なぜか?
考えてみて、気が付きました。
それは、自分の話しかけに対して、相手の微妙な反応、表情が見えにくい、掴めない。
「これはあまり乗り気じゃないんだな、早く終わらせて帰りたいんだな、
何か他に気がかりなことがあるのか?」など等、
そういった事が読めないことに対する不安であるようだ。
晴眼者は、無意識にそういった事を見てコミニュケーションをとっているのだ。
しかし、見えないなりに、別の感覚が研ぎ澄まされてきたような気がします。
では電話は?スカイプは?
どうも、止めどもない話、すみません。
相手と意見が異なったり、対立したりということはよく起こりがち、
これを避けることはできない、。
おっしゃるとおりと思います。
相手を否定しない!やさしくする、受容するということでしょうか。
この、受容の加減が難しいように思います。
失礼しました。
ネコさん、こんにちわ。
やさしさというものの中には、妥協は入っていないと思います。
自分は妥協しますね。
性格的にとても妥協する人間だと思います。
それは自分の欠点だと思います。
一方、ネット上の議論には通常妥協はありません。
文字だけがすべてですから・・・
時間切れで言いたいことを言えずごまかすということもない。
私自身、他の人から「お前は書けば伝わる」と言われたことがあります。
話して言いたいことを言うということが、下手です。
しかし、やさしさの中には妥協するという要素はないと思います。
妥協しないから残酷であってはならない。
クレームをつけていても、お茶ぐらい出しましょう。
そうしてみると、やさしくするということはとても大事なことのように思えてきたのです。