天国というのは、我々が何か(不明である)を貯めるかなにかして、その貯めているものは勝手に増え、そしてその勝手に増えたり成長したりする何かを収穫したり改修したりするために主人だか花婿だかが帰ってくるというような、そういうものである。
そうすると、ではそのタラントなのか油なのか麦なのか(タラント、油、麦が何かはいまだ不明として)を増やすということについては福音書は何を言っているのか。
マタイ6章にはこうある。
19. あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人(ぬすびと)らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
20. むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
21. あなたの宝のある所には、心もあるからである。
22. 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
これじゃないですか。天に宝を蓄える。これでしょ。
でもちょっと待って。この前後、マタイ6章にはこうある。
1. 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
2. だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
3. あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
4. それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
5. また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6. あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
16. また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
17. あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
18. それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
つまり、天に宝を蓄えろ、とキリストが言っているときには、それをこの世的に報酬でもらってはダメだ、つまり、褒められたり、人に見られて「おっ、あいつがんばってんじゃん」と思われてはダメだということなのだ。
また、一般的に金持ちになることも否定的に言われている。
マタイ19章
23.それからイエスは弟子(でし)たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
24.また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
マタイ5章
3. 心の貧しい人は幸いである。天国はかれらのものである。
(これはある意味誤訳だということは以前記事にしました。本当は精神における貧者、要するに貧者なのだけれど、貧者の実体と言うのは本当に金があるなしではなく精神的問題なのです。)
その「人から評価されるということに対して、無頓着、ないしは慎重にそれを避ける。」ということこそが、「天に宝を蓄える」ことだ、ということになる。そして、実はそれは「僕がタラントを稼ぐ」まさにその行為であると考えても良いと思う。
では、ではですよ。
もし他人から評価される、この世的な金銭の報酬を得るというようなことを、全く考えない行為というものがあったとしたら、何が一体「種がよい土地で芽を出して豊かに実がなる」とか「主人が預けられた金を稼いで10倍にした。」というようなことになるのか。
これ、一つの着眼点としては「お前、やってみたか?」ということがある。
これ、ほんまなんや!と信じて、全体像がつかめずとも、善行して褒められないというのをしてみたか?
困っている人を助けて、親兄弟も奥さんも知らない。新聞にも載らない。どうですか。
電車で席を譲ります。でもそこで、「あっ、あの人席譲ってる。立派だな。」と思われてはいけない。ではどうしますか?
しかも、何か黙々と取り組んで、ほめてももらえない、金ももらえない、そういうのをなぜやります?どうしたらいいの。
これ、散々悩んでみて、やってみないと、つまり実行、求道、修行が伴わないと、「結局それやったとして、何が天国やねん?」というところが思いつかないと思う。
これ、やらなあかんのや。きっと真実があるからやってみよう。しかし、電車で席譲るなんて簡単なことですらその「褒められちゃいかん」というのと両立させるにはどうしたいいのか。そこで実際にやれば、その気持ちとは何か、その恥ずかしさとは何か、葛藤が生まれる。そうした葛藤があれば、多分「これはあのことを言っているのだ」という糸口が見えてくるだろう。