何らかの意識の取り組みというものがすでにあるとき、その人が何か重要な結果を求めているとき、多分その人は福音書を見て、「これ、ひょっとしてそのことが書いてあるんじゃないだろうか・・・?」と思うかもしれない。
つまり、たとえば座禅をしている場合。幽体離脱とか、明晰夢のようなものに取り組んでいる場合。仏教徒なら悟りかもしれないし、ヨガならサマーディかもしれない、プロテスタントのクリスチャンなら「聖霊の体験」とかなんとかいうやつかもしれない。
では、仏教徒で座禅だとしましょう。
座禅をしてみる人はは全くやみくもに結跏趺坐の格好をして座るだけ、と言うことはないだろうと思う。大方の仏教の理屈というものは、何らかの形で聞いているものだ。
つまり、無我なのだ。あるいは何も考えない。何も考えないということはできないから、とりあえずは頭に思い浮かぶものを思い浮かばせておいて、それに執着しない。一応は、何とはなしに、「仏教が最終的に目指しているものはこういうものなんだよ」というざっとした概念とともにそれに取り組むことになる。
しかし、残念ながら座禅をしても、大抵は無我にはならないし、悟ってもいないし、平穏にもならないし、思考が静かになったりもしないし、無執着になったりもしない。だからといって、座禅をする前の、何も知らない状態と同じかと言うとそうではない。
そこから悟りというのは、越えられない壁である。なぜかというと、そこはメソッドではないからだ。考えている私が考えないようにする。そこには考えないようにするという私はもはや考えないのだから、その最後の一手を打ちようがない。
ここにはまた別の示唆がある。つまり、最終的な悟りを得るのと凡夫の間に、実は中間的な状態が存在するということ。悟り、エンライトメント、光明というわけだけれど、その灯を灯すのに何か貯めている状態がある。水道から出した水をやかんに入れて火にかけると、直ちに気化するわけではない。30度、40度、なかなか沸騰しない。そして90度でやかんを火からおろしてしまえば、結局水のままだ。100度になって初めて一斉に水は沸騰する。
その時には必ず、その座禅で悟りを得ようと思った「私」が裏切られる形でそれは実現する。なぜなら「無我」なのだから、私にいてもらっちゃ困るのだ。その「私」はその悟りの何かがやってくるまで必死で頑張ってそれを達成しようとし、目覚めを得ようとする。だがピラミッドの最後の頂点を積むのは「私」ではない。
この構造が、タラントを稼ぐ僕と、よく似ていません?
いやいや、別に最初から一緒だと結論付ける必要はないですよ。
だけど、主人は別に来る。その頑張ってやってるやつは「僕に過ぎん」わけですよね。
これ、上では座禅を取り上げたけれど、人々が「明晰夢」といってるやつ、私は「夢見」と聞いたのだけれど、それだったとしても必ず「おい、これなんか似てないか?」と思うはずだと私は思う。
多分福音書も、漫然と描かれていることが実現するというよりは、それを聞いてる人はすでに何らかの形で実践をしていたと思うんです。