過去にも似たような話題を取り上げたことはあるので、蒸し返しになりますが・・・
モアナの話の中では、緑の光る石がテ・フィティのこころで、「テ・フィティにこころを返す」というフレーズが繰り返し出てきます。自分はギリシャ語なんかで聞くと
επιστρέψουμε καρδιά (エピストレプスーメ カルディア)
でカルディアが「こころ」です。
—(以下ネタバレごめんなさい)—
本当は全身緑で、木々やコケやシダに覆われた優しい顔の女神さんなんだけど、心を失って溶岩の魔物テ・カーになってしまっているわけです。最後の最後でモアナはそれに気が付いてテ・カーと直接対決して、元あった位置にこころをはめこむわけです。下の絵の矢印のところです。
そうすると、テ・カーの周りの溶岩が黒く冷めた岩がボロボロと剥がれ落ちて、中から緑のテ・フィティが現れる、というシーンなのです。
このテ・フィティ、なかなかチャーミングな造形なんですよ。それから、1950年か60年かぐらいに作られていそうなトンデモ化け物映画的な印象も受けます。なかなかいい。・・・が、まあそれはおいておいて・・・
だけど、その場所から言っても、「こころ」と訳してるけど、これは「心臓」でもあるよね。意味合いとして「テ・フィティに心臓を返しに行く」でも通るし、ある意味わかりやすい。
ギリシャ語のκαρδιάにも心臓という意味があるし、英語のheartも心臓です。イタリア語のクオレ、ロシア語のセルツェ、みんな「こころ」と「心臓」という両方の意味がある。
ヨーロッパの言語だけかな、と思って翻訳サイトでやってみると、アラビア語とかヘブライ語みたいなセム語族も同じみたいだし、ヒンディ語なども同じみたい。
文字は読めないんだけど、同じ形をしている。
漢字、いわゆる中国語でも一緒ですよね。心はこころの意味も心臓の意味もあるから。
韓国語とかアジアの一部の言葉では違っているケースもあるみたい。
でも、いずれにしてもほとんどの国で「こころ」というのは「心臓」と同じ言葉なんです。
この「こころ」というのは日本語のようにものすごく広い意味を指す言葉ではなくて、その人の気持ちの中心、たましいを指す言葉です。逆に言うと外国の言葉でheartとかκαρδιάとかに該当する日本語はないと言ってもいいんじゃないかな。
感じてはいると思うんですよ。「ドキドキ」とかいうのがあるし。「お前の気持ちはどうなの」「お前自身はどう思う」ということなのだけれど、それを一言でいうheartとかいう単語が日本語にはない。
たとえば、外国人が「それはこころの問題だ」というときに、彼らは脳のニューロンの働き云々とは思っていないと思う。人間の気持ちの中心は心臓にあるから、ニューロンがどうであれ、彼は感じているのだ、という言わず語らずの理屈が彼の中にあると思う。
結果的に彼らは日本人のようにドライに唯物論者にはならないのではないだろうか。「でもそれは心の問題じゃないか」といったとしても、日本人のように脳を破壊すれば消滅するとは多くの人は思っていなくて、幸福な王子様の金箔がはがれてブリキになったあとも焼却炉で残る心臓、あれは残るんだよ、と感じていると思う。
だから、この点は日本語のほうが、何かとてもおかしいのではないかと思います。