みんな明晰夢がどうこう言っている。自分は夢見という言葉でそれを知った。明晰夢という呼び方は好きではない。大事なことはそれをすることにどういう意味合いがあるかだ。
夢の中で立ち止まって手を見る、自覚を持つ、ということは頭で考えると不可能なことのように思える。そして、実際に「よし、じゃタバコでも買ってくるか」みたいなのりで「よし、じゃ手を見つけるか」と思って見つけられるというわけでもない。お前の願いでは見つけられないのだ。この今考えて普通に行動して自分で自分だと思っている自分では、それができないのだ。
また夢の中で手を見るというのは、目を使ってみているわけではない。普通の感覚器官で見ているわけではないのだ。
昔、自分は瞑想がどうとか、仏教がどうとか、そういうのに惹かれていた時期があった。そうすると、思考が変なところに飛んでいかないように、ずっと鼻頭と呼吸に視線と神経を集中し続けるとかそういうことをした。これはとても有意義だったと思う。有意義だったとは思うが、そこでは結局鼻とか壁とかという物質世界はつまりリアルなものだという言わず語らずの前提がある。
ところが夢の中で手を見るというのは、感覚でもないし思考でもない。見えはしても見ているのは目ではない。にもかかわらず、そこに意識的な何か、意志的な何かが存在し、それはとてもリアルなものだ。
祈りとか、信じるとか、念じるとか、あらゆることが「私」には越えられないところにある。今の考えている私が私だと思っている私にはできないことであるにもかかわらず、私がリアルにすることでもある。
それを定義する。魔術的な目標を持つ。霊的な冒険心を持つ。バランスを取る。