ルカによる福音書10:38~41
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
これはよく引き合いに出される福音書の一節です。
様々に解釈される。自分も若いころこの一説を解釈しあぐねていた。というか、大体のことはわかるんだけど、ピタッとはまらないというのか。
ざっというと、キリストの話を聞くことのほうが、バタバタいらない世話を焼くことよりいいんだ!というわけですよね。
しかし、相手がキリストだということを除けば、これはふつう正しい態度ではない。お客さん、村長さんか市会議員さん、あるいはお坊さん、司祭さん、こういう方がおいでになって、まず接待しないといけないんじゃないの?そして自分はあれこれの段取りをして接待をできる人に対して、ある程度尊敬の念をもって見ている。
そこに意識とか求道という観点が入るということは、それはそれでわかる。なんでもマイスター・エックハルトは、マルタの側もいわばそれなりの意識状態に入っていて、マリアを憐れんでいるのだという。なんでしたっけ、要するに十牛図の十番目だか、活動的であっても精神が集中している何とかサマーディに入っている、みたいなことですよね。しかし、それも話をややこしくしすぎだと思う。
いま、なんとなくわかるよ。時間がたてばわかるというものではないにしろ、経験や時間が必要な場合もあるのだと思う。
つまり、マリアには今まさに「起こっている」わけで、キリストもマリアにそれが「起こっている」のを見ている、ということだと思う。
誰もが、探す人は、これを求めている。こうなりたいわけだ。
探さない人、求めない人にはわからないことだ。
マリアはこれを選ばなければならない。
もしこの1立方センチメートルのチャンスを逃せば、二度とこのチャンスは来ないかもしれない。
キリストが言いたかったのはそれだと思う。私たちもそうだ。そこにそのチャンスが来た時に、絶対にそれを逃してはいけない。
やって来ました。チャンス到来!というか私自身ががチャンスとしてやってきたのだったら嬉しい・・です。
こんにちは。私はこちらは一年ちょっとぶりになりますですかね?記憶になければ頑張って思い出して下さい。よろしくお願いいたします。
私はこのマリアとマルタさんの箇所、牧師から飽きるほど聞いてきました。私もマリアと一緒で仕事中でも気になることがあると目の前の事を放り出してそっちに向かってしまう・・そういうとこあったんです。今はもうよっぽどじゃない限り動かないですけど。私はマルタさんタイプじゃないですね。
そういえば以前職場に姉妹で働いてた人いましたけど、20代前半ででしっかり者のお姉さんの方が自由に動き回る3歳下の妹によく注意してて微笑ましかったです。姉妹なら言いたいこと言えていいですけど、他人同士の女性の場合はほんっと難しいです。同じことをして気の合う者同士なら見逃せる場合でも、合わない(嫌いな)者は見逃せないってことあるんです。しかも本人には言わない。私も女性ばかり十数名とやってきて色々ありました。今はもうわだかまりもなく楽しいだけ、感謝しかないです。お別れと思ったら泣けてきます・・。
話変わりまして、私、今月6日にアストロマップ(トラベル)っていうサイトを知って興味本位で自分の情報を入力してみたんです。そしたら!!!
わ~面白いです。。 信憑性がどれだけあるのかわかんないんですけど、なんか意味深なんでお伝えしようと思ってでてきました。
まず、
月のノード(MC)のラインが出雲大社の上を走っています。
そのすぐ隣、くっつくように西側にキロン? カイロン?(MC)のラインが走ってます。
そして私が4月から行く国は、ものすごく小さい国です。その・・その・・その超絶小さい国の上、しかも住む予定の場所の上を 月のノード(AC)が走ってます。
面白いです。やっぱりなんかあるなって思いませんか??たとえなくてもあるものにしていきたい。そういう気持ち・・この場を借りてどうも失礼致しました。
451453さん、こんにちわ。
ええっと、ご無沙汰でした。
アストロマップですか、やってみています。これ、読むのに時間いりそう。